12/12/04

関東平野の今昔(雑木林は原風景か?)

ところで、国木田独歩の作品「武蔵野」の影響で、武蔵野と言えば、雑木林を想像する人が多いと思いますが、江戸時代初期までは、ぼうぼうたる草原でしかなかったのです。
江戸の人口が増えてきて、その熱源としての薪炭需要をまかなうために、どんぐり・クヌギを植林したのが雑木林の始まりと言われています。
草原でなく、雑木林であったとしても見通しが悪い点は同じです。
私が中学生のころ、一人で和歌山県と大阪間にある和泉山脈の中のどうってことのない山に登ったことがあります。
禿山でなく、雑木がおい茂っていたので結局何も見えないのには、驚いたことがあります。
なだらかな丘陵地帯に同じような高さの木が一杯ある場合、木に登っても結局何も見えないという原体験です。
この薪炭畑が、明治以降「武蔵野の原風景」として有り難がられているに過ぎません。
最近良く取り上げられる棚田も、同じことで、人工の原風景でしかないのです。
環境保護運動は好きですが、自然を守れと言っても、実は歴史としては、たいしたことがないことは客観的事実として指摘しておくのが公平でしょう。
歴史が有ろうがなかろうが、自分の好きな風景かどうかの視点で賛同者を募るのが公平です。
話を迷子に戻しますと、江戸時代になってきっちりした街道の整備で、ともかく街道を歩いていけば平野部を歩いても目的地に着けるようになったのですから、日光街道や中仙道、川越街道などの街道ができたのは画期的なことでした。
古代から関東平野の真ん中を突っ切るコースはなく、三浦半島から船で江戸湾を渡って、房総半島に入り、そこから陸路奥州方面へ向かうものだったのですが、これは江戸時代まで同じだったのです。
このため、上総の国が半島中部にあり、下総の国が半島基底部になっているのは、今の陸路中心で考えれば逆ですが、江戸時代まではそれが正しい順路だったのです。
日本武尊が江戸湾を渡海中に嵐に遭って、愛妻?おと橘姫が海に身を投じる故事が有ります。
あずま(吾妻)の語源と言われる有名な場面ですが、中世には源頼朝が石橋山で敗れて、安房にわたったのも有名です。
このように人の移動は、永い間海路が中心だったのです。
こうした関東平野の交通事情・状況を大きく変えたのは、前記の諸街道の整備と氾濫を繰り返す利根川を江戸湾から銚子に流れるように1654年に付け替えたことでしょう。
この結果江戸周辺は、洪水の危険から逃れるようになって(荒川と隅田川も同じ関係です)現在に至っているのですから、それこそ、100年の大計どころか、千年の大計であったとすらいえる大事業でした。



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