12/27/03
身分とは?4(中世社会3)(武家=武士と百姓等)
「武家」と言う言葉には、武士一般の総称と、公家政権に対する、武士出身の政権と言う意味の広狭2義があると言われています。
広義の武家は、公家の対立概念で、武芸=弓射騎馬を専業とするものを指し、武家は侍身分と、その従僕身分(郎等、)郎従に分れ、侍はさらに将軍と直接の主従関係のある御家人と、非御家人になっていました。
侍の従僕身分は、郎等、郎従、家人、若党など多様な名称で呼ばれていました。
彼らは、侍と違って、騎馬を許されず、侍になることは困難であったと言います。
そうは言うものの、例えば左馬頭義朝の家人が皆歩いていたわけではなく、その他の名のある武士も、騎馬何十騎とか言いますので、侍が所従を引き連れてさらに上位の侍の家人になる場合もあって、実は複雑だったと思います。
郎等は、侍とは区別されながらも、裁判の時には広縁に上がって裁きを受けられるなどから見ると、雑人(凡下=庶民)よりは少し上の待遇があったようです。
次に百姓凡下について見ましょう。
今は百姓と言うと農民のことと考える人が多いと思いますが、実は、江戸時代までは被支配身分の圧倒的多数を占める一般庶民身分を百姓(何でもありという意味?)、凡下、甲乙人(これも契約書に今でも書く甲、乙丙みたいな個性を認めない言い方?)などと呼んでいた呼称の一つだったのです。
室町時代には、庶民を地下人(平安時代の諸大夫等に対する呼称が、随分と値下がりしましたね)土民とも言いました。
その多くは、産業構造上農民が殆どでしたが、商人、手工業者、漁民、等の非農民も少なくなかったのです。
百姓、凡下身分は下人所従とは異なり、特定領主の私的隷属化に置かれず、所定の年貢公事さえ納めれば、居住移転は自由とされていた為、(御成敗式目式目)これを中世の自由民と見ることも出来るそうです。
他方侍と凡下の間には、画然とした区別があって、凡下は苗字を名乗ることが出来ず、騎馬も禁じられていたようです。
次に下人・所従とはどういうものかについてみて見ましょう。
中世の下人の語は、A・・・王朝貴族から見ての身分が低いもの. B・・・主人に対する従者一般 C・・・古代の奴婢の系譜を引く奴隷的身分などの多義的な概念ですが、上記Cの概念の下人をここで説明しましょう。
この種の下人は、所従、奴婢、雑人とも呼ばれ、特定の領主や、百姓に私的に隷属するものでした。
人格的自由が認められず財物とともに売買質入、譲渡の目的物とされたというのですが、本当かなあ?と言う疑問をもつ人が多いでしょう。
この歴史シリーズの事実関係は、連載の冒頭にお断りしましたように主として、牧英正氏外編著の書物を参考にしていますので、専門家が調べて書いているのですから本当にあったのかも知れませんね。
それに森鴎外の有名な作品、「山椒太夫」は、奴隷になっていた母親を救出する話ですが、まんざら作り話でもないのかもしれません。
鎌倉幕府法は、原則として人身売買を禁止していましたが、下人所従はその禁止の対象から除外されていたというのです。
貞永式目は奴婢の生んだ子供の貴族についても規定し、男子は父親の主人に女子は母親の主人に帰属すると定めていました。
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