12/15/03
刑罰が、追放や流刑中心では、「犯罪者のたらいまわしでしかない」と早くから儒学者から批判されていましたが、(私の比喩でも座敷からごみを掃き出すだけです。)幕府や各藩では財政負担が大きいので、今のように刑務所に入れて服役させることは出来なかったのです。
近代的な行刑の思想で、要するに犯罪者の教育・更生を目的とする刑務所は、熊本細川藩が、宝暦4年(1754年)の「御刑法草書」で追放刑を廃止し、服役を始めたことにより始まりました。
これがわが国の刑務所の始まりですが、全国的な影響を持つ幕府が採用したのは、そのずっと後の松平定信の寛政の改革(1790年)まで待たねばなりませんでした。
それでも幕府の改革は、人足寄せ場も併せて用意したと言うだけであって、追放刑を全廃したのではないのですから、熊本藩の改革の先進性とすごさが分かると言うものです。
刑罰と刑法は一体ですから、刑法の定めで刑罰、ひいては刑務所を作るかどうかも決まってくると言う訳です。
ここでさらに話が遠くなりますが、江戸初期からの刑罰の種類を紹介しておきましょう。
戦国時代は、わが国の歴史上、石川五右衛門の釜茹でなど、もっとも残虐な刑罰が行われていたことは、言うまでもありません。
江戸時代初期もその影響から、磔や火炙りなど死刑はいろいろあり、(石田光成の処刑は竹鋸で首を少しづつ傷をつけて行われたと言いますが、幕末まで、主殺しなどの儒教道徳に反する犯罪では残っていたそうです。)残虐な厳罰主義が横行していました。
刑罰の目的が一罰百戒、見せしめが主目的であったことと、残酷な刑罰とは関係があると思います。
江戸時代を通じて、初期だけでなく幕末まで、寛刑化が如何に進んでも、結局残虐な刑をなくせなかったのは、こうした刑事政策思想があったからでしょう。
江戸時代初期には縁座、連座は広範なうえに厳しいものがあり、耳鼻そぎや、指切り入れ墨などの肉刑が広く行われていました。
今でも暴力団では、指詰めなどの処罰が残っているのはその名残でしょうか?
処罰ではありませんが,刺青も好きですね。
こうした厳罰傾向も、幕府権力の確立に伴い、大名の改易の減少とともに、17世紀末ころから寛刑化の傾向が強まりました。
思想的には、儒学の浸透で、君主の仁慈が強調されるようになったことも大きいのです。
年号に、「寛」と言う文字が多く使われるようになったのも、その特徴をあらわしているでしょう。
ついでに江戸時代の年号は、36もありますが、多い順に紹介しておきますと、家光の寛永(1624〜1644)に始まって、寛文(1661〜1673)寛保(1741〜1744)寛延(1748〜1751)寛政(1789〜1801)と年号では「寛」の文字が5回で一番多いのです。
次に多いのは、文化文政の「文」と言う文字で、4回使われていて、3番目に多いのは享保の「享」という字と慶長、慶安、慶応の「慶」で3回です。
次回からのコラムで、江戸時代の刑罰を現在の刑罰と比較しながら、具体的に紹介しましょう。
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