12/13/03

会津の悲惨3(刑務所の歴史2)

追放(所払い)や流刑は、行った先で勝手に自分で食べてくれというものですが、今でもいきなり知らないところへ行って、仕事に就くのは大変です。
まして、人材の流通性の低い江戸時代では、追放された禄でもないもの・・窃盗犯とか傷害犯が、何の身元保証もなく未知の世界で、いきなりまともな就職ができる訳がないのです。
よそ者がいきなり農業を出来ないのは当然ですから、夜盗ややくざ集団にでも入るしか生きて行く方法はなかったでしょう。
無宿者の決まり文句と言うか有名な台詞「一宿一飯の恩義」とは、よく言ったもので、小伝馬町の牢から出てきたときに、おなか一杯にしてもらったかどうかは知りませんが、捕まるくらいの人に蓄えがあるわけがないのですから、江戸から歩いて出たころには、直ぐにもおなかがすくわけです。
人間は、2〜3日も食べなければ、ふらふらですから、どこかで食べさえてくれなければ、10日以内に死んでいたでしょう。
江戸から追放されてきた周りこそ、大迷惑と言うものです。
関八州にやくざが多かったのは、こまかい知行地に細分化していたために、取締りが行き届かなかったことが原因の一つのように言われますが、それだけでなくしょっちゅう予備軍の流入があったことも大きな原因ではないでしょうか。
勿論女性が頑張って男が遊んで暮らせるような、産業構造の土地にやくざ者が多かった点は、無視できませんが、また別の機会に書きましょう。
山賊や夜盗と言っても、そうは定期的な収入にはなりませんので、大抵は、そこで飢え死にないし病死することを期待しているわけです。
話が変わりますが、暴力団も、不定期収入のゆすりや恐喝では、組を維持できませんので、安定収入を求めて、みか締め料(用心棒料)などを求めたり、フロント企業をせっせと作っています。
もっと昔からある、貴人や偉い人の流刑も同じ原理です。
鬼界が島に流された俊寛僧都の物語では、海藻を取って生き永らえていた様子が描かれていますので、流された人の生活がわかるでしょうが、頼朝でさえ、流されっぱなしのままでは、飢え死にしかなかったわけです。
幸い乳母の実家、比企氏(埼玉県比企郡)から地位相応の生活費(少しの家来を養える)が切れ目なく届けられていたので、何とかなっていたのです。
戦国末に、真田幸村父子が紀州九度山に流されたのも有名ですが、物語では真田紐の全国販売で食いつないだと言うことになっていますが、実際は、徳川方について真田家を存続させた長男からの仕送りがあったからこそ、成り立っていたのです。


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