12/12/03
会津の悲惨2(刑務所の歴史1)
話が変わりますが、皆さんは刑務所というものは、昔からあるものだと思っているでしょうが、実は、ほんの最近、250年程前に出来た制度なのです。
刑務所などを維持するのは、とてもお金がかかるので、江戸時代では、ご存知のとおり死罪未満の重罪は、島流し、所払いなど流刑が中心でした。
こうした視点でみると、捕虜になった会津藩士も、大変だったでしょうが、これを預かる越後高田藩の方こそ大迷惑だったでしょう。
牢名主などが、映画に出てきますが、今の未決拘留期間(調べから裁判まで)のことでしかありません。
今のように服役という仕組みは、後に紹介する熊本藩を別として、松平定信が創設した人足寄せ場の制度が出来るまでありませんでした。
刑罰が決まると、簡単な50叩き、100叩きなどの体刑は別として、江戸または江戸を中心に何里までの一定期間追放など(ごみを座敷から吐き出す発想です)から、遠島(これも勿論いろいろな場所がありますし期間もあります。)といって流刑が多用されていました。
逮捕したばかりのときに、雁字搦めに縛ったりする時代劇がありますが、牢に入れてからまで縛っては置けません。
刑務所ないし、捕虜収容所というものは、大の男を食べさせて、さらに24時間体制の監視も必要ですから、膨大な人数が必要となるし、大きな建物もいる(大きな敷地も要ります)ので、大変なお金を食います。
よほどしっかりした行刑の思想が、確立しないと出来ないことなのです。
今でも、外国人の犯罪は、法律上執行猶予出来る事件は、原則執行猶予でしかも即日判決言い渡しが普通です。
裁判所も検察も、一日も無駄飯を食わせないと言う運用ですよ。
昔は刑罰が決まるまでの間の、出費でさえ大変でしたから、いわゆる豚箱では命をつなぐのがやっとと言う非衛生、栄養不良極まりないものでした。
中国でも、獄につながれると言えば、殆ど獄死、(病死)を意味していた程です。
映画みたいな拷問で死ぬ人は稀で、(実は江戸時代に拷問はありましたが、拷問するには決まりがあってしかもかなりの上級職までの許可が必要だったので、滅多に拷問はありませんでした。)栄養不良と非衛生による病死が中心だったのです。
こうしたことから、殆どの場合、金のかからない追放刑、流刑が採用されていたのです。
流刑というのは、「自分の手で殺すのまではしないが、運があれば生き残ればいい」というもので、実質的に考えれば、死刑と無期懲役の間の刑と言えるでしょう。
考え方の根本は、姥捨て山とか、熊野 青岸渡寺の補陀楽信仰みたいなものです。
補陀楽信仰と言うのは、ていのいい年寄り放逐策だったのではないでしょうか?
実質的な集団流刑であった、会津の悲惨さは、明白です。
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