12/11/03

千葉の歴史9(千葉県人と勤勉革命の素通り5)(会津の悲惨)

明治以降全国に広まったはずの強迫型、勤勉生活が、どう言う訳か千葉県だけを素通りしてしまったようなのです。
私が思うには、千葉同様にのんびりと幕末までやって来た筈の東北各県では、いきなり明治政府による強迫観念の導入で、県民が大いに動揺したことでしょう。
太宰治や、石川啄木など精神を病んだような作家が登場し、或いは野口英世などが出た土壌ではないかと思います。
人気の宮沢賢治だって、どこか追い詰められた精神状況を感じるところがあるのは、私だけでしょうか?
何故、千葉と違って、東北の人たちがそうした強迫観念に取り付かれたかと言うと、これも私の思いつきですが、彼らは、明治維新に際し、奥羽列藩同盟を形成し,維新政府に歯向かって朝敵になってしまったことにあると思います。
ちなみに上杉や伊達藩が、奥羽列藩同盟を結成したその精神状況は、戦国時代の再来、敗者復活戦(勿論100%そう思っていたと言うのではありませんが、司馬遼太郎の作品のどこかにもそういうか解釈があったように思います。)と考えていたようですから、時代錯誤性が明らかです。
この時代に至っても、西洋の圧力をきちんと理解出来なかった彼らが、その250年以上も前の鎖国のときから、東南アジアを通じた海の圧力など、全く解していなかった事が明らかと言うべきでしょう。
会津藩士が、戊辰戦争後おかれた苦境は、誰でも知ってのとおりですが、少し具体的に紹介しておきましょう。
敗戦後は、藩士全部が越後高田藩お預け、今でいう捕虜収容所生活でしたが、明治2年に藩の再興が許され、青森県に僅か3万石の領地を貰い、地の果てであろうと皆これ帝国の一部と言う意味と、南に帰りたいという望郷の念とを託し、新しい藩名として斗南藩と命名しました。
この命名からして懸命な気持ちが窺われるところではないでしょうか?
酷寒の地に、藩士1万7千人あまりもが移住して、開拓に従事し、冬はむしろや俵にくるまって寒さを凌いだと言われています。
今でもそうですが、開拓というのは肥沃な土地でも、1年目から米や麦が出来るものではありませんが、政府から一銭の援助もなかったというのです。
こうして、飢えと寒さで病死が、相次ぎ悲惨なものでした。
まさに関が原で敗れた毛利家が、日本海側の寒い萩に押し込められたのと似ていますが、毛利は領地が3分の1になっただけですし、自分の領内で首都を移動しただけですが、会津は23万石から3万石と10分の1ほどに縮小し、それも、これから勝手に開拓すれば3万石になるというだけですから、苦境たるや、半端なものではありません。
伊達藩の一部でも、この後で書くように北海道に移住していますが、伊達の場合は、落城まで行かないうちに講和したので、家財は残っていました。
それで、武具甲冑家屋敷など金目のものを売り払って移住資金にしたらしいのですが、会津藩は、城下までも戦場になったうえで、さらに捕虜収容所生活が長かったので、多分なんら金目のものはなかった筈です。
会津藩兵と言っても、23万石ですから大兵力です。
この大人数を、1年以上も難民として預かる越後高田藩の方が多分悲鳴を上げてしまったので、政府は、追い出すための口実として3万石の藩の再興を認めたのでしょう。
どちらかというと、シベリヤ流刑と似ていますね。


今回の読み物の関連書籍:



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

稲垣法律事務所コラム内:歴史に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:不動産に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:明治に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦前に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦後に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:江戸に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:千葉に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:資本主義に関するコラム


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資