12/10/03

千葉の歴史8(千葉県人と海洋史観4・・勤勉革命)

私の考えでは、もしかしたら、日本人には、鎖国政策によって、無茶に勤勉になった国民集団と、そういう風(かぜ)にあたらなかった幸せな国民の2種類がいるような気がするのです。
例えば、関が原で敗れて処刑された小西行長は、堺の薬種商・・貿易商人から、大名になった程で、もともと、西国大名は、貿易に関していることが多かったのですから、鎖国政策は致命的な影響があった筈です。
また坂本竜馬など西国出身の人は、動乱期になって鎖国の禁令が緩むと、すぐ貿易に興味を示す民族性がありますが 内陸部である八王子出身の近藤勇、会津藩などが、そういう方向への関心が乏しいのは、育った地域の歴史がそうさせるのでしょう。
箱根以北の諸大名では、大藩であった伊達家が西洋・貿易に関心を示していたくらいで、(それも上からの関心でしかなく、草の根の貿易が先行していたのではありません。)その他は、戦国末期〜江戸初期に至っても貿易とは、無関係だったのです。
今でも東北地方は、貿易とは、あまり関係ない傾向がありますよ。
勿論東国でも鎖国によって、間接的には貿易品が入らないと言う影響があったことを否定するものではありません。
西国大名にとっては、精神面のキリシタン禁制と同様に、物流が断ち切られると言うのは、大変なショックだったと思います。
実際は薩摩のように密貿易に、精出していたばかりか、奄美から琉球諸島まで支配下に置くなど領土拡張さえしていた藩もあり、日本は海岸線が長いので、鎖国はどの程度守られていたかも、実はハッキリしないのです。
ただし、建前はそうなったことだけは明らかでしょうから、その範囲ではあるが、基本的な影響をおおまかに川勝先生は言っておられるのはわかります。
また天領とその他の区分を書きましたが、天領は、全国に細かく散らばっていた為に、いわゆる関八州以外の天領は、その地域民族性に吸収されてしまって個性が残っていない可能性があります。
私が言うところの天領とそれ以外という区分は、まとまった天領である関八州とそれ以外に区分するのと同じことになるのかも知れません。
もしかしたら、東南アジアの海洋圧力に抗して頑張ったのは、地域で区分すると、箱根以西までであって、日本中が、しかも老いも若きも、職種を問わず、まなじりを吊り上げて、頑張ってきたのは、欧米列強の圧力を(これも海からきたのです。・・その点では川勝先生の海の圧力は同感です)日本中が感じて、頑張るようになった明治以降のことではないでしょうか?
そして、私のコラムの一貫したテーマは、明治以降の強迫観念に取り付かれたような、刻苦勉励型人生観を卒業して、「ゆとりの人生で行きませんか!」と言うのものですが、千葉人が余りにも、農地の手入れしないのを見てきた千葉県佐原市の岩沢信夫という人が「冬期湛水水田・不耕起農法」を考え付いた(と勝手に私が想像しているだけですよ)ように、私ものんびりした千葉人に囲まれているからこそ、ゆとり生活を提唱するようになったのかも知れませんね。
では次から、在来千葉人は何故、明治以降も勤勉型に変更しなかったのかを、考えてみましょう。


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