12/08/03

千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)

譜代、親藩でも、国替えのない大藩があります。
御三家などをみると、国替えのない点と規模が大きいので、努力のし甲斐があるというわけで、生産性向上、特産品の創出に熱心でした。
そのうえ、御三家は勿論御1門ですから、家来筋の役職である老中などに出世する関係のない家柄です。
それに引き換え、旗本知行地の乱立していた関八州では、経営努力をするといっても規模が小さすぎて(現在で言えば御父さん1人の家内工業みたいなもの)人まねに手一杯で、生産性を上げるとか、特産品を工夫するまでは、とても手が回らないと言うのが実情だったでしょう。
房総の例でいいますと、家康が江戸城に入って間もない、慶長3年(1598年)を基準にしますと最大で本田忠勝の10万石で(これは戦国大名里見に対する備えとして徳川四天王を配置したものです。)ついで里見の9万石、(ただし関が原の功績で鹿島に3万石貰いましたので、あわせて12万2000石でした。)里見が断絶してからの、1794年(寛政6年)になると、佐倉藩の11万石が最大で、あとは関宿の5万8000石、久留里の3万石、それ以下は、1〜2万石の小さな10藩が入り乱れておりました。
しかも、領主が変わる都度、藩領の範囲も変わるのですから、(前記のように本多11万石の跡地は雲散霧消です。)領民の一体性もぐちゃぐちゃです。
それよりも、もっと重要なのは、旗本領が房総に集中していたことだと思います。
関東に3009あった旗本、御家人知行地のうち、房総には、その約3分の1にあたる、936もあって、一つの村(今のような大きな村ではなく、集落と言ってよいでしょう)さえ構成できない小さなものがいくつもあったので、村民(と言っても10戸前後)何か行事をするにも大変迷惑したらしいのです。
もっとも小さな知行地では、ひとつの集落を12人で分割している例さえありました。
こんな状態では、領国経営と言っても前向きの挑戦をするどころではなかったでしょう。
これに比べて外様大名にとっては、先祖代々の土地ですから長期的視点で特産品などの工夫が出来る外、領内の生産性を上げるしか生き残る余地がなかったので必死だったという気持ちの問題、更には、一定の経済規模があった面も、重要な要素だったと思います。
旗本でも吉良上野介のような先祖代々の領地をもつ場合は、(吉良氏は、足利の一門で太平記の時代から活躍している名家・・・高家筆頭と言う所以です。)自分の土地(領民とも何らかの、血のつながりがある関係です)ですから、領国経営に熱心ですし、6〜7千石だったかきっちり覚えていませんが一定の規模もありますので、経済的にも何か事業が出来るのです。
こうした背景で特産品の塩生産に絡んで、(真偽は分かりません)忠臣蔵みたいな事件も起きるのです。
これに対し、関八州は、北条家が滅びた後に徳川家がいきなりやってきた占領地、進駐軍ですから、知行地としてもらった旗本にとっては、愛着がなかっただけでなく、そこに屋敷を構えるほどの規模でもないので、行っても泊まるところもなく、(今のように日帰りが出来ません)結局自分の知行地へ行くこともままならなかった筈です。
こうして農民にとっても、領主と言っても名簿上でしかなく、平安貴族が都で国司になっていたときと同じで、これまた愛着がなくそれぞれ別々に生きていた傾向があります。
こうした土地(規模が小さすぎる、相互に愛着がない・領主の関心は中央での出世だけ)では、上下気持ちをあわせて頑張る気持ちが育たなかったのは、仕方ないところです。




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