12/07/08

千葉の歴史5(千葉県人と海洋史観2)

私は、川勝先生の海洋史観を面白いと思う1人ですが、私が考えるには、海洋からの圧力に対するレスポンスは、陸伝いでは、箱根の西まで、または最高行っても江戸の職人どまりだったのではないかという疑問です。
或いは幕藩体制下のグループ分けをすれば、幕府直轄地を除く各藩の構成員だけだった可能性もあります。
何しろ各藩にとっては、限られた領内(鎖国とはそういう意味になります)で生産性を上げ、または特産品の生産に励むことが、死活問題だったのに対し、直轄地代官にとっては、そうした必要性に迫られていないどころか、幕閣で出世出来るかどうかの方が大きな大きな関心事だったからです。
今の天下り役人が、地方自治体を渡り歩いているのと同様の問題があり、地方分権の重要性で既に書いたとおりです。(地方自治、地方分権は、今年の10月に集中的に書いていますので、コラム内サーチで検索して御読みください)
その意味では、譜代大名も今の転勤族みたいに、国替えをしょっちゅう命じられていましたので、特産品や生産性を上げるインセンチブが弱かったように思います。
ちなみに、房総1の大きな藩であった佐倉藩でさえも、14回も領主が入れ替わっていますよ。譜代の場合は、国変えはありましたが、そのかわり小藩でも老中になれる等出世の楽しみもありました。
有名な田沼意次を例に取れば、彼は、吉宗が将軍になる際に付いて来た紀州藩士の子ですから、勿論、出自は大名ですらあり得ません。
その彼が,小姓、側用人から老中となり、幕政を長年壟断し、確か3万石程度の大名にまで出世しているのです。
こう言う大名小名の場合、せっかく領地を貰ったからには、領地経営に精力の何分の1かは割くでしょうが、(田沼意次も御茶栽培をしたようですが、せいぜい周りの真似をしたくらいでしょう。)やはり、関心の中心は、国政、ひいては自身の更なる出世ないし地位保全に関心が行くのは当然です。
田沼意次は、せっかく大名に取り立てられたのに、幕閣の政務に忙しくて、一度もお国入りが出来ないうちに失脚してしまったとも言われています。
われわれ弁護士でも、日弁連の会長、副会長その他の要職などに就任していると、自分の弁護士業務は、おろそかと言うよりも、殆ど出来なくなるのと同じです。
これに対し、外様大名は、幕府では無役ですから、江戸城に出仕しても、何もすることがなく、鼻毛を抜いたりして御茶を飲んで帰るくらいです。
その間に人事(自分の出世)に頭を悩ます必要もなく、領国の経営に知恵を絞る時間が十分にあるのです。
仙台藩などは、江戸城内で仙台味噌や特産品の紹介に余念がなかったことでも有名です。
もしも、幕府から、仕事が回ってきたら、単に持ち出しの奉公(薩摩藩が、木曽川の改修工事を命じられて大変な目にあったことは有名です)でしかないのですから、考えるのは、そうした役が回ってこないようにする立ち回りばかりです。
こうしてみると、鎖国以来頑張ったのは、外様大名を主とし、(それも長州のように危機感を持った大名は必死です)御三家のように大藩で且つ国替えのない大名に限られていたのではないかと思うのです。




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