12/05/03

豊かな自然と千葉の歴史3

千葉では、平地の雑木林が、不動産登記上は[山林]となっていることを紹介しましたが、地目山林の殆どが、関東ローム層と言って、富士山が噴火したときの火山灰が、3〜4メートルも積もって古くなっただけの土ですから、開墾すると言っても他県の岩だらけの山の開墾とは、桁違いに楽なのです。
こういうところが千葉市内、船橋市、八千代内或いは八街、四街道と近辺に一杯(旧名称で言うと下総野国一帯に)あるのですから、戦後の食糧難の時代に山梨や、長野県から、開墾農民がたくさん入植して来ました。
満蒙開拓団に参加したのは、根性のある信州や甲州の人が多かったようですが、(千葉の人が行っても続かなかったと思いますよ)彼らが戦後命がけで帰ってみれば、こんな楽なところに一杯土地が余っているのに、何で自分達が命がけで満州まで行ってたのか、疑問に思ったことでしょう。
もっとも、千葉県民の為に言い訳しますと、開拓しないで放置していたのは、台地状で水がないのと火山灰の古いものですから、雨が降ってもすぐ沁みこんでしまって、水田その他の作物には向かなかったのが原因らしいのです。
ところで東葛飾郡=江戸川周辺から香取までは、下総野と呼ばれる海抜20〜30メートル前後の広大な台地が続いており、前記のように作物には向いていなかったものの、馬の放牧には適していたので、平安末・・平将門以来・・鎌倉時代・・江戸時代末までは、幕府の馬を育てる重要な牧場でした。
8代将軍吉宗のころには、さらに整備されて、小金牧には1000頭、佐倉牧には1200頭の馬がいたと記録されています。
この牧というのは、必要に応じて馬を囲いに追い込んで捕獲する放牧形式で、この追い込むための土手が築かれていて、今では残っているところは、文化財になっているので、勝手に宅地造成などは出来ません。
また安房の国・今の房総半島の南の方では、里見8犬伝で有名な里見氏が支配していたときに、古来の牧を再興して軍馬養成に利用していたといわれている嶺丘牧があり、里見氏滅亡後、そこを幕府は直轄牧にしていました。
吉宗がインドから白牛3頭輸入したときには、白牛を嶺丘牧に入れて飼育し、最盛期には70頭にも増やしてバターを作っていたので、日本の酪農発祥の地とも言われています。
酪農の発祥地が、千葉県(と言っても下総ではなく安房の国です)にあるのは、こうした自然風土を無視できませんし、青木昆陽がサツマイモの実験をして成功したのが、千葉市の馬加(まくわり・今の幕張)だったのも、こうした土壌と関係があります。
明治になってから、これらを、順次畑に転換してきたのですから、明治初年ころは馬が放牧されていた面積の方が、畑よりも多かったかもしれません。
最近の事例では、成田空港の新設は、政府の御料牧場を中心として計画したものであったことも、ここで想起するのも良いでしょう。
今でも、成田空港の地名は、御料何番地と言うものです。
戦後は、東京の近郊農業・蔬菜栽培としては適していたことと、地下水のくみ上げなど近代設備のおかげで、畑地や果樹園に転換して開拓が進み、千葉県の農業生産高は、長年北海道に次いで、全国で第2位となっています。
こうしたことから、今の状況からだけ見ると、千葉人が今まで開拓しなかったのは、怠慢だと思われがちですが、時代が違っていたとも言えるのです。




関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

稲垣法律事務所コラム内:歴史に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:不動産に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:明治に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦前に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦後に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:江戸に関するコラム


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資