11/30/07
農地開放政策の意義4(GHQの占領政策2)
明治政府による、イギリスのまねをした農民の追い出し→都市労働者輩出政策は、子沢山政策によって工場労働者供給の点ではうまく行ったのですが、うまくいったのはそれだけのことでしかありませんでした。
他方で、これと平行したきちんとした農業政策のビジョンがなかっために、根こそぎ零細農民をなくすことが出来なかったのです。
長男一家が農地にしがみついたまま居残ってしまったので、農業の質的変化を招来できなかったのです。
産業構造の変化は経済的必要があって生まれるのであって、必要もないのに政府が強制してもうまく行かない事例でしょう。
イギリスのように農業から羊の牧場に切り替えたのではなく、・・・日本では、農業形式が従来のまま・・・人力による集約農業のままですから、零細農民を都会に追い出したのでは、旧来の農業は消滅するしかありません。
現在、耕作者がいなくなって、過疎地で水田が荒れたままになっているのと同じ結果になったでしょう。
農地を買って、その跡地に工場を建てたり、広大な牧場経営をしようというなら別ですが、従来どおり米を作りたい、しかも旧来どおりの集約農業しか知らないとあっては、耕作者つきで買わないと、地主(買主)は購入によって新たに増えた農地の耕作力を維持できません。
農民から買い取った後にも同じだけの人手は、江戸時代末同様に必要だったのですから、政府が租税の金納や子沢山政策で零細農民を破綻させて農地を売るように仕向けていっても、農地を売った零細農民が一家を挙げて都会に出て行ってしまうことはありえない社会構造だったのです。
ですから、大規模所有者(大地主)が出現しても、新機軸を打ち出すわけではなく、農地を買う方は人手・・耕作者付きで買う・・結局従来の零細農民が小作人に転化するだけの形態しかなかったのです。
こうして次男以下は都会に出て行き、長男一家は家督相続制によって従来どおり農村にとどまり、小作人として耕作を続ける仕組みになって、子沢山政策と家督相続制は一応均衡が取れていたのです。
ただ辻褄をあわせると言うだけであって、明治政府には、近代工業社会化に重点があって、農業を正面から捉える視点が欠けていて、農業の近代化と言うビジョンがなく、自作農の小作人化・隷従化という面には目が充分に行っていなかったのが問題だったのです。
ですから、敗戦時に改革すべきは、単なるまき戻しではなく近代企業的農業経営者に脱皮し、小作人を近代労働者として脱皮させられるかどうかが、政策研究の課題だったのではないでしょうか?
農地開放政策は、具体的な近代化のビジョンもなく、単に社会の中堅出身階層であった地主を、一方的に不労所得者として断罪し、その存在を認めないと言う方向性・・懲罰的政策が中心であったことが問題です。
政治には、・・国際政治も同じですが・・・、表向きの理由と裏に隠された国益があるものです。
関連ページリンク
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
