11/25/06
明治末から大正の世相(人心)5(文学者の世界)
石川啄木(1886(明治19)〜1912(明治45)も、ほぼ同時期活躍の人ですが、彼も、最初はローマン的な作品でした。
「・・・・空にすわれし十五の心」
15〜6年前に盛岡市内を家族とともにサイクリングで廻ったときに、彼の詩に誘われて、「こずかた城」を訪れた事があります。
行ってみると、寝転んで空を行く雲を眺めるような場所では、有りませんでした。
時代が変わりすぎたのでしょう。
盛岡は、学生時代(昭和38年夏でした)から数えて、そのときが4回目の訪問でしたが、静かないい町です。
学生時代に行ったときは、駅前広場に面した2階建ての旅館に大勢で泊まったのですが、勿論昔の砂利敷きの駅前広場は近代的広場になっていて、昔どこの駅前にもあった駅前旅館は、影も形もなくなっていました。
しかし、彼・・石川啄木も最後は悲しい作品ばかりで、これらばかりが知られていますが、彼の活躍したのが明治晩年だったからでしょうか?
生活が苦しい人や病気の人は、何時の世にもいくらもいたのですから、矢張りこうした悲壮な詩ばかりが生まれたのは、時代背景を抜きにして語れないでしょう。
処女詩集「あこがれ」は、いわゆるローマン派的作品ですが、1905年・・日露戦争勝利の年ですが、有名な歌集「一握の砂」は1910年、「悲しき玩具」は1912年死亡後の刊行ですが、いずれも明治末です。
その他、暗い悲しい内容の作家ばかりが続出するのです。
宮沢賢治(、1896年8月27日 〜1933年9月21日)だって、どこか物悲しいですよ!
ま、自分に都合の良い事例ばかり出しているキライもありますが、芸術家は時代の雰囲気を、敏感に感じ取っていたのではないでしょうか?
こうして初期夏目漱石のような、どこか明るい作品・・・・あるいは客観的な作品は日本から姿を消して生き、私的な内面世界をグダグダと書く私小説ばかりになって行くのです。
戦後徐々に私小説が減ってきたのは、恐れていた民族の破局・・敗戦を迎えて見ると、意外に見通しが明るくなったことと、高度成長期以降国民心理が健康になったからではないでしょうか?
(特に、最近、私小説は減ってきたと言えるでしょう。)
関連ページリンク
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
