11/22/06
玉砕の美学6(殉死制度はあったのか?1)
「阿部一族」の描く玉砕の美学は、明治末から大正ころに好まれた心理だったので、古典的名著として受け入れられたのでしょう。
それに加えて、そもそも、殉死制度が本当にあったのでしょうか?
乃木大将の殉死が世間を騒がせた翌年1月に、この作品が発表されたのですが、鴎外の名作「阿部1族」によって昔からある制度のように国民に刷り込みされただけではないでしょうか?
阿部一族では、殉死は、いかにも細川家の歴代の慣習法の如く書かれています。
しかし、細川忠利は、大名らしくなった初代藤孝以来3代目でしかないのです。
この間に例えば初代藤孝が死亡したときに重臣の多くが殉死したでしょうか?
2代目忠興のときはどうでしょうか?
豊臣徳川のどちらにつくか瀬戸際のときに、そんな悠長なことにこだわっていると大名家は没落してしまったでしょう。
外交交渉は、大名本人だけでなく、重臣らは、手分けして他大名家の重臣らと情報交換・収集に走り、他家の人材と仲良くなったりして、お家の維持存続に鎬を削っていたのは、幕末と同じです。
島津斉彬が死亡しても、西郷隆盛その他誰も殉死しなかったからこそ、維新は成ったのです。
日本の歴史上どの武将の死に臨んでも、そのような殉死の習慣を描いたものは見られません。
頼朝が死んで重臣が、殉死したでしょうか?
あるいは、武田信玄や上杉謙信が死んで誰か重臣が殉死していますか?
信長が死んで、秀吉や勝家が殉死していたら、歴史が変わっていたでしょう。
勿論、家康が死んだときに、殉死した重臣も聞きません。
(知らないのは私だけかも知りませんが、あってもマイナーな歴史でしょう)
いかにも細川家には殉死のルールが代々あったと言う鴎外の書き方は、乃木大将の殉死によって着想した、鴎外の創作ではないでしょうか?
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