11/21/06
玉砕の美学3(現実主義の細川家1)
阿部1族の内容は、誰でも知ってのとおりですが、時期だけ特定しておきますと、1641(寛永18)年に領主細川忠利(ただとし)の死亡前後から始まる話です。
ちなみに細川忠利は、島原の乱(寛永14年10月25日(1637年12月11日)〜寛永15年2月28日(1638年4月12日))での功績を、家光から認められるなど徳川体制下でも着々と地盤を築き、肥後細川家(54万石だったか?)大藩を確立した武将でした。
と言うことは、忠利は、事実上の創立者藤孝から数えて3代目とは言え、つい死の直前まで、実戦で戦っていた武将だったのです。
ちなみに、細川家は、管領で有名な細川勝元の嫡流ではなく、細川藤孝が将軍のご落胤説・・など出自がよく分かりませんが、兎も角、信長以来光秀と共にめきめき頭角をあらわして大名となったものです。
ですから、彼が事実上の初代と言うべきでしょう。
その孫である忠利も関が原(1600年)大阪の陣(1615)以来、去就の難しい時代を巧く切り抜けてきた政治的巧者でもあったのです。
この間に肥後の国を領した加藤清正の後継ぎが失脚して、彼・細川忠利がその代わり肥後の国主となるのですから、難しい時代に逆に巧く生きていたことが分かるでしょう。
政治と言うものは、義理人情に訴えながらも、その実、合理的な選択・・行動をするべきものです。
当然、その周りに仕える武将達も、合理的行動原理を旨としていた筈です。
平和な江戸時代に先立つ戦国時代には、生きるか死ぬか、食うか食われるかの時代ですから、美学に酔いしれている暇などなく、大勢の命を預かる武将は、現実的選択能力を必要とされていたのです。
明智光秀は、本能寺攻撃成功直後に、もっとも信頼関係にあった親友の細川藤孝(忠利の祖父です)に協力要請しますが、細川は、結局は拒否して光秀を見殺しにします。
第一の親友・盟友と自他ともに認める細川が動かなくて、他の大名が加勢する訳が有りません。
こうして光秀は、せっかく本能寺攻撃の成功にも拘わらず、孤立無援のまま3日天下に終わらざるを得なかったのです。
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