11/16/06
棄民政策・・満州進出5(ノモンハン事件の教訓)
日本は、中国で第1次上海事件以来戦線が拡大する一方で、泥沼戦争に入っていましたから、戦力をさけなかった事情がありました。
それを言えば、ソ連だって、対ドイツ向け戦力が正面作戦ですから、遠くはなれた極東にさける戦力は、限られていたのですから同じです。
ノモンハン事件は、一種の実験戦争であったとも言われますので、この実験の結果、西洋列強の実力を目の当たりにした軍部は、やれば負けるのを誰よりも良く知っていたでしょう。
日本は不幸にして日露戦争以来、まともに列強と戦ったことがなく、列強の本当の実力を知る機会がなかったのです。
(この間に第1次世界大戦がありましたが、日本はほんのちょっと極東でドイツの留守部隊と戦っただけで、本当の主力軍との戦いを経験していないのです。)
そこで、実験的戦争をしてみたら、とんでもない格差に驚いてしまった次第です。
このように、昭和14年段階では、アメリカよりもずっと装備で劣るソ連軍にさえも、まるで歯が立たなかったのが、軍部には分かっていたのです。
その程度の戦力で、ソ連よりもはるかに強いアメリカに戦いを挑もうとするのは、無茶もいいところだったのです。
しかし、ときは既に昭和14年夏で、(国際連盟脱退表明は1933年3月)今更負けそうだから、世界とうまくやりましょうと言う訳に行かなくなっていたのです。
それでも、その段階で方針転換してアメリカと妥協する道をさぐれば、まだ何とかなったかも知れないのですから、矢張り政治家の無能が第2次世界大戦になったと言うことでしょうか?
話を満州進出に戻しますと、このようにソ連と日本陸軍との戦力差は、今のイラクを攻撃するアメリカのように一方的なものでした。
ましてや、兵士としての大した訓練もない農民=屯田兵への、銃一丁の交付程度で、満蒙の国境線を守ることなどは、不可能であるのは政府は充分に分かっていた筈です。
銃一丁あるかなしかの屯田兵が、兵として役に立つのは、土地を取り上げられた現地農民の反抗に対して威圧するためだけだったでしょう。
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