11/16/06
家意識の定着と離農への抵抗(棄民政策・・満州進出)4
ところで、農民が土地にしがみつくのは、古代からの歴史経過によるだけでは有りません。
明治以降の家制度の強調・・思想教育に農民があまりにも適応してしまったために、農民が先祖代々の土地を手放さなくなった意識面で、預かって力がありました。
家制度に反応した農民(守るほどの家らしい家もないのに)が、あくまで家を守る意識がつよくなってしまい、自分の代で一家を絶やすことに耐えられない精神構造になっていたからです。
この結果、戦後もそうですが、農民がいくら減っても、農地を荒らしたままでも人手に渡さない・・大規模化に誘導し難く、現在にいたる訳です。
農業政策についてはこれまで大分書いて来ましたので、また別に書くとして、満州への屯田兵方式の移住は、ロシアからの防衛のためではなかったのです。
移民政策が相手の受け入れによるものではなく、押しかけ(正確には、不法占領でしょう)だったから、土地を追われた現地農民の反感が激しく、自衛のための軍備が必要だったからでしょう。
国民には内緒でしたが・・・ノモンハン事件(昭和14年)を見れば分かるように、ロシアの機甲師団には、正規軍でもまるで歯が立たなかったのです。
太平洋戦争末期の竹やりの訓練や、特攻機での突撃は物資がなくなったから仕方がなかったと思っている方が多いと思います。
しかし、大東亜研究室のホームページによるノモンハン事件(昭和14年)のデータを見ると以下のとおりです。
<ソ連・外蒙軍>
狙撃2個師団 自動車化狙撃1個師団 機関銃1個旅団 戦車2個旅団 ほか
装甲車3個旅団 空挺1個旅団 モンゴル軍2個騎兵師団
兵員57000名 戦車500輌 装甲車385輌 火砲・迫撃砲542門 飛行機515機 諸説あり
<日本・満州国軍>
兵員2万数千名 戦車0輌 火砲・迫撃砲100門
茫漠たる平原での遭遇戦で、戦車・装甲車中心のソ連軍に対し、歩兵中心では戦いにならなかったのです。
見渡す限りの大平原で遭遇して戦えば、歩兵は戦車隊に蹂躙されるばかりで、(司令官自体が戦車に轢かれる始末です)ほぼ全滅状態で、悲惨な戦争でした。
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