11/30/05
これまで、社会の大多数を占める農民社会が自営農民中心であったことや、精神面では仏教精神の浸透した社会が、儒教的秩序の定着を阻んできたと書いてきましたが、実は明治以降本格的に儒教道徳が定着していくのです。
儒教道徳が昔からあると思う方が多いと思いますが、これまで書いて来たように、江戸時代には、武士層だけで、しかも仕方なしに強制されていただけであって、国民の大多数には関係ない道徳でした。
綱吉が儒学に入れ込んでいたにも拘らず、精神世界では仏教精神のままで、生類憐みの令を次々と発布していたことからも分るでしょう。
このころは飽くまで御勉強するための儒「学」であって儒「教」と言う精神世界を支配する概念ではなかったのです。
それが明治政府によって、国民全部に守るべき道徳として強制するようになり、精神世界まで干渉する宗教に昇格したのです。
その教育効果が出始めたのが明治10〜20年台とすれば、それから敗戦までとして数えると儒「教」化されてからの期間は、ホンの40〜50年単位のことだったのです。
現在まで、その延長で来たとしても、約100年になります。
(いつも書くことですが、私の考えでは、戦後も明治政府の延長思想時代と思っています。)
そこで、明治以降の日本で儒教道徳が庶民に至るまで何故定着したかを見ておきましょう。11/25/05自営農民社会2(儒教への距離と陽明学2)のコラムの続きですが、明治維新直後の地租改正以降、自営農民の没落が始り、地方では先ず大地主層が発生します。
農村に残った農民は、小作人となり、都会に出た農民は労働者になっていきます。
大正期以降地主層も没落していきますが(次郎物語や青春劇場の背景です)、それまでの3〜40年
間は中国の明末同様に農村社会でも、儒教秩序の妥当する社会が出現していたのです。
戦後に農村の民主化の切り札として折角復活した自作農も、高度成長期になると出稼ぎ農民となっていき、農業従事者全体が社会の中核構成要素から脱落していきます。
高度成長期以降の社会の中核構成要素は、サラリーマンや工場労働者に変わりますが、彼らは言うまでもなく武士同様に支配服従の論理に組み込まれていきます。
儒教道徳(上下の秩序厳守)は、もともと武士だけのための道徳ではなく、支配服従関係・上下秩序維持のために、すべての組織に妥当する規範なのです。
戦国時代までの武士・地方豪族らは、今で言えば独立の自営業者のようなもので、そのときどきの都合で、あっちについたりこっちについたり、離合集散を繰り返ししていたのですから、厳重な上下関係と言うよりも応援団のような関係でしかなかったので、儒教の妥当する関係ではなかったのです。
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