11/28/05

儒教との距離5(定着していた仏教2)

日本に導入されたころの仏教は、単なる信仰の対象としてだけではなく、明治以降の西洋法の受け入れ、西洋哲学の受け入れや産業革命の結果である近代科学の受け入れに類する程の文化ショックとしての扱いを受けたと思われます。
時代が違うので、仏教渡来当時は祈祷で病気を治すという呪術的要素も重視されたでしょうが、それをもって馬鹿にしてはいけません。
仏教受け入れの基本は、弘法大師の事績でも分るように、あちこちで井戸を掘ったり、溜池を作ったり、病人を治したり、多様な分野の先進的知識受け入れ機能にあったのです。
(大仏建立時に活躍したので有名な、行基菩薩の役割も同じです)
仏教渡来以来、わが国では国の宗教として国民に浸透してきたものでしたし、学問も仏教を通じて発達してきたものでした。
東大寺の3月堂(法華堂)なども、3月に法華経の勉強会をする場所と言う意味から始まっているのです。
この知識は、昭和56年秋に法華堂に行ったときに、家族揃ってじっと見ていた私たちの所に、高僧らしき人がたまたま出てきて、内部の国宝の仏様達の説明をしてくれたついでに、お堂の由来を尋ねところ、教えてくれたのです。
美術も仏教画から始っていますし、彫刻も音楽も勿論そうでしょう。
建物さえも、元はお寺の伽藍から始ったとすら言えるのです。
このように、仏教の影響は心の隅々まで浸透していたし、自然に根ざした国民意識に定着していたのですから、徳川期にいきなり儒学が官学になったくらいでは、儒学が国民一人一人に浸透するわけがなかったのです。
武士でさえも、心の中は御城に登るときだけ着る裃のようなものだったでしょう。
それに、日本の武家は、平将門の例でも分るようにその始まりから、地方に割拠する形で発達してきたものであって儒学の根本思想である一君万民体制でなかったのですから、木に竹を接いだようなもので、制度的にも無理がありました。
源平以来の武家政権は、封建性どころか(誰かに封じられていた訳ではありません)独立性が高く、最後の徳川体制でさえもどちらかと言えば、連合的性格が濃厚であったことを繰り返し書いてきました。



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