11/28/05
わが国にも天智天皇以前から、当然儒学を含めた諸子百家の思想が存在するという知識は伝わっていた筈ですが、朱子学を幕府公認の学問にするまでは、儒学は殆ど問題にされていなかったのです。
ちなみに、仏教が本格的に中国に渡来したのは、魏晋南北朝のころ・・・・魏志倭人伝のころですから、蘇我氏・・聖徳太子のころは中国でもまだ新顔の思想でした。
仏教の日本渡来前から儒学は中国に存在していたのですが、わが国は数ある思想(諸子百家)の中から周知のように、仏教だけを国の思想・統治原理として蘇我氏と物部氏の争いのころに導入したものです。
そのころの日本の知識人、支配者の間では、儒学は墨子集団やその他の諸子百家と同列程度の、数ある考えの一つでしかなく、まとめて取り入れるほどの魅力がなかったからではないでしょうか。
当時は、仏教と諸子百家とは、思想的完成度において同列に比較できないほどの格差があったと思われます。
その後1200年までには体系的学問としての朱子学が成立しますが、それでも徳川政権の官学になるまでには、約400年以上もかかっているのです。
その間、武士層が帰依していたのは禅宗(高級武士)や浄土系宗教(下層武士)でした。
中世にはいっても、朱子学が対抗心を燃やしていた禅宗系の学問や水墨画その他の芸術は、日本にどしどしはいっていたのです。
鎌倉五山や京の五山などが隆盛を極めていたのですから、儒学や朱子学の文献だけが入手できなかったとは思われません。
ですから、儒学これの発展した朱子学の存在が知られていたにも拘わらず、武家の時代到来から戦国時代、織豊政権を経て徳川草創期までは、武士層からでさえ、まるで見向きもされていなかったということになります。
徳川体制確立までは、武士階層(支配者である信長などを含めても)は、変革の旗手の役割だったのですから、停滞をよしとする儒学など見向きもしなかったのはあたり前です。
朱子学が採用されて儒学が国民の目に触れるようになったのは、社会組織が固まり、社会の変革が停滞した徳川時代になってからでした。
君臣秩序向き・・・・秩序固定を図る思想は結果的に停滞社会向きの思想だったことが武士層には本能的に分っていたからではないでしょうか。
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