11/25/05

自営農民社会3(儒教への距離陽明学3)

自営農民中心の日本では、武家を除いた末端では、対等な社会であったために、武家の身分秩序は全社会の中の一部・・特殊な制度として、批判的に・・揶揄されて見られるものでした。
窮屈な武家社会のしきたりを、コケにした落語の題材が多いのもその一つでしょう。
歌舞伎の例では、前回コラムで菅原伝授手習鑑の有名場面を紹介しました。
このように上下秩序維持に熱心な朱子学は、武家以外には不向きだったので、儒学の中でも制度を相対的なものと見る陽明学だけは、官学ではなかったものの、日本国民の支持を受けて脈々と受け継がれていったのです。
それにこれまで書いて来たように、日本では政治制度は変転極まりないものだという世間の常識があって、現行制度を不易の制度のように言う朱子学は落ち着きが悪かったこともあります。
むしろ、対象は見る人の主観によって変わって来る相対的なものだという陽明学の認識論の方が、わが国の歴史経験からも馴染みが良かったのでしょう。
陽明学の日本での草分けで、近江聖人といわれる中江藤樹は祖父は武士でしたが、父母は近江で農民をしていて、農民の子として育ったのです。
祖父の意見で祖父(武士)の養子となって伊予藩に仕官し郡奉行(100石)まで進みますが、27才ころには母の看病のためと言って伊予大洲藩を辞し、近江に帰って古着を売ったりして生活していたのです。
その後は浪人のままでしたが、大州藩からわざわざ弟子入りのための訪問者が後をたたず、いつも門弟が数人住み込んでいる状態だったともいわれます。
彼は、後に朱子学の矛盾に気付き陽明学に傾斜していくのですが、これは農民や周りの生活を実際に見聞きしていたからでしょう。
こうして、彼は地元農民にも慕われて、近江聖人といわれるようになるのです。
中国と違ってわが国では陽明学が存続出来たとはいっても、陽明学で有名な熊沢蕃山は、思想が過激すぎたせいか、後に池田家からの保護を受けられなくなっています。
机上の思惟だけでなく知行合一を説く陽明学は、兎も角世間では人気があって、これが、大塩平八郎や、吉田松蔭の松下村塾につながり、明治維新の思想的原動力になったのです。
この学問があったから明治維新になったのではなく、こうした学問が根付く社会があったことに意味があるでしょう。
これまでも書いていますが、学問や思想が社会を動かすのではなく、社会が学問や思想を作り育てたり、出来あがった新時代がその思想的裏付けを求めるのです。



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