11/25/05
土地区画整理法の具体的な解釈は、また別の機会に譲ることにして、自営農が日本で健在であった理由に話しを戻しましょう。
財産に関する相続法制については、農民だけが分割相続でなく武士層・・徳川家でも長子単独相続が原則ではなく、
最初の内は分割相続が原則であったのです。
徳川家では家光以来、長子相続が原則になったと言っても、武家の場合、家督・・・一族への指揮命令権だけは誰か1人に絞らざるを得ませんが、財産相続はむしろ分割が原則だったのです。
ところが、新田開発や新規領土取得が次第になくなって来ると(社会の安定期)、分割していたのでは一定規模の農業が出来なくなります。
そうなると少子化に絞らざるを得なくなりますが、これの失敗した場合に長子単独相続に移行していったに過ぎません。
この辺のところは、02/09/04「江戸時代の相続制度 9(明治民法の時代錯誤性)」前後のコラムで紹介してきました。
またわが国の大地主は、明治の地租改正の結果出現したに過ぎないことも、04/09/04「地租改正と農地売買の自由化3(大地主の誕生と小作農の出現=窮乏化)」前後のコラムで紹介しました。
このようにわが国では、新田開発しても農家の次男三男への分家や新宅になるだけであって、社会の末端組織である農村社会にまで身分秩序が及ばなかったので、儒教的秩序は、いつまで経っても借り物意識のままになったのでしょう。
そして、御芝居でも
「すまじきものは、宮仕えよのう!」(菅原伝授手習鑑)
と詠嘆させる場面が、名場面として残っているのです。
この歌舞伎がヒットしている裏には、
「このような秩序社会には、住みたくないね」
という国民感情・・・・自由民の方が多いからこそ、共感を持って支えられているといえるでしょう。
以上のように、地主小作関係のなかったわが国では、子供向き漫画に出てくるような懐手にした大地主や長者ドンは存在しなかったのです。
これは、明治以降に出現した地主層を、昔からあったものとして想像して書いているだけです。
ホンの数十年も続くと、殆どの人が古代からあるもののように思いたがる一つの例でしょう。
地主層の出現を阻んだのは、徳川政権による厳しい農地売買禁止政策であったことを、「03/31/04
「男の沽券(沽券)面子とは?2(農地売買の禁止)」のコラムで紹介しました。
農地の流動化が進んだのも、明治以降に過ぎないことを、04/07/04「明治政府の政策と農地の流動化1(地租改正と、農地売買の自由化) 」のコラムで書いて来ましたので参照してください。
末端まで君臣秩序の小型版(地主小作関係)が出来上がっていた中国や朝鮮と違い、日本では庄屋とか名主になれる家柄と言っても、ホンのちょっとの違いでしかなく、みんなで汗を流して働く社会だったのです。
上下秩序構築に好都合で、しかも実践に関係のなく懐に手を入れているのを良しとする儒学・朱子学は、みんなが汗を流して働く日本社会では庶民には定着しにくかった所以です。
朝鮮人から見れば、日本人のレベルが低くて儒教も知らない非文明人だと思っていたようですが、それぞれ文化の土壌が違うだけのことです。
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