11/24/05
日本では体制変革志向の強い陽明学の人気が高く、しかも幕末で影響力を持ちえたのは、江戸時代を通じて地主小作関係が発達しなかったからでしょう。
新田を開拓しても、その事業に従事するのは次男三男が原則で、新田完成後彼らは分家するのが普通でした。
朱子学の全面的浸透を阻んだ原因としては、明治維新までは、自営農民中心社会で、地主層が発達しなかったのが大きかったと思われます。
鴻池などの豪商が新田開拓を請け負うのですが、開拓が終わっても、自分が大規模農地所有者になって小作人を使うのではなく、完成後は売り渡して行ってその利益を得る仕組みでした。
昭和40年代から盛んに行われていた土地区画整理組合が、保留地を売って経費を出すのと同じ発想です。
逆に江戸時代の鴻池らのやり方を、御手本にして現在風に法制化しただけかもしれません。
土地区画整理法を見ておきましょう。
土地区画整理法
【目次】
第1章 総 則 (第1条〜第3条の4)
第2章 施行者 (第4条〜第71条の6)
第3章 土地区画整理事業 (第72条〜第117条の2)
第4章 費用の負担等 (第118条〜第121条)
第5章 監 督 (第122条〜第127条の2)
第6章 雑 則 (第128条〜第136条の4)
第7章 罰 則 (第137条〜第146条)昭和29・5・20・法律119号
保留地等の処分第108条第3条第3項若しくは第4項、第3条の2又は第3条の3の規定による施行者は、第104条第11項の規定
により取得した保留地を、当該保留地を定めた目的のために、当該保留地を定めた目的に適合し、かつ、施行規程
で定める方法に従つて処分しなければならない。
豪商は、開拓従事の農民に完成後の農地を分け与える約束で協力させ、(勿論一定の日当を与えますが・・・)事業主体は一定の保留地を確保することになっていて、これが売れてこそ利益が出る仕組みでした。
このように、江戸時代には、新田開発が盛んに行われたのですが、それが大地主の出現には結びつかなかったのです。新田の開拓事業は、これだけの人を束ねる政治力と長期間の投資に耐える資金力のある豪商であって、始めてできる仕事だったのです。
銚子港の開発について、12/20/04「千葉の歴史13(千葉県人とは1)紀州移民1(開発者の身分は)?」のコラムで関連記事を書きました。
新田開発の手法については、明治維新直後に千葉県の広大な土地の開発を請け負った事績を元に私が書いているだけです。
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