11/21/05
朱子学によれば、気とは質量を言うのですから、現在用語の「気質」と言うのは気の強調形なのかまたは排気ガス」と言うのと同じダブル用法でしょうか?
朱子の存在論は二元論でしたが、宇宙の始まりにはまず理のみがあったとし、理を気よりも優位におきます。「理」とは宇宙の根本原理であり、したがって宇宙の中に存在する人間も
また本性として理を持っている(性即理)。
しかし肉体を形成している「気」にもとづく欲望によって、理の発現が妨げ られる。
「そこで学問によって理を明らかにして本来の性に回帰する必要が ある」
と言うのです。
理性と言う熟語が、ここから出ているのでしょうか?
それにしても、学問をすることで理性が発達し、欲望を押さえることが出来るのでしょうか?
知識や学問を人並以上にしたとしても、それだけで理性が欲望に克てるとは思えないように思いますが・・・?
知情意の3っつは、それぞれ別系列で、知力と情とは関係がなく、意思力が強くとも情感が良いとはいえないなど、それぞれ別の系統にあると言うのが普通の理解ではないでしょうか?
そこで、欲望の抑制には、知識や机上の学問だけでなく、一定の修行・鍛錬が必要というのが日本人の感覚のような気がします。
この点が、11/18/05「儒教と社会の停滞4(刻苦勉励の日本1)」のコラムにも書きましたが、懐に手を入れた状態を良しとする儒学の精神と勤勉を尊ぶ日本人の違いでもあるでしょう。
ただし、実際のところ、インテリ階級というか地位のある人の犯罪は少ないことになっていますので、意外に朱子の考えは合っているのかも知れません。
例えば、上場企業の役員クラスが性犯罪(セクハラを除く)や強盗・傷害などの旧来型の犯罪を犯すことは予想外で、もし犯したら、大ニュースでしょう。
と言うことは、「修行によってのみ鍛錬できる」と言う日本人の思い込みは、現実社会と合っていないのかも知れません。
ただし、これは別の要因、社会的地位のある人は、その面での抑制が働く(地位を失うデメリット)と言うだけかもしれません。
そのうえ、そこまでの地位に上り詰めるまでには、それなりの試練に耐えてきた結果、現在の地位があるのですから、修行の形態が違うだけで、それなりに鍛錬されているとも言えるのですから、必ずしも日本人の間違いともいえないでしょう。
司法試験も難しいので、挑戦するにはかなりの精神力が必要です。
司法試験受験は、あまりにも困難なために試験勉強よりも精神面で負けてしまって、途中で挫折する人が結構多いのですが、この程度で挫折するようなヤワな人はタフネゴシェーターとしての弁護士には向きません。
何の苦労もなく現役で合格した秀才よりも、何回か挑戦した愚鈍タイプの弁護士の方が実社会では強いでしょう。
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