11/20/05

思想信条の自由憲法135)(陰陽5行説

完成度の高いキリスト神学の裏返しとして言えることは、儒学は、孔孟の教えから始っていますが、政治哲学や、人の生き方などがを中心に発達しただけであって、基本的に自然科学系にはそれほどの関心がなかったのです。
その分だけ、自然科学に対する既存権威が確立していないのですから、アジアでは自然科学系に対する思想の縛りがなかったのは当然です。
裏返せば、自由以前の状態にあったに過ぎなかっただけのことでしょう。
憲法で言う思想、信条の自由、表現の自由の保障とは、既存権威や体制があって、普通なら自由にもの言えない社会を前提とするのです。
西洋では絶対王制やキリスト教の宗教裁判などの縛りを、経由した概念と言えるでしょう。
人権保障とは、それにも拘わらず既存権威や体制に反する意見を、自由に言える保障を言うのであって、そこまで成熟していない社会では人権保障としての自由権とは関係がないのです。
信教の自由も同様であって、他宗排斥の宗教が幅を利かしている社会でこそ、憲法で保障することに意味があるのであって、まだ何の宗教もない未開社会で、八百万の神があるからと言って、信教の自由が保障されているのではなく、それ以前と言うだけです。
ま、アジアは周回遅れの社会だったというわけです。
中国古代で自然科学系の思想があまり発達しなかった理由を考えてみると、諸子百家の時代と言っても中国古代は内陸で発達したことに原因があるでしょう。
海洋国家のギリシャローマやその前のヘレニズム・メソポタミヤに比べて、宇宙の動きに関する知識の必要性が乏しかったと思うのです。
海洋国家(あるいは中央アジアの沙漠地帯)では、星の運行に関する正確な知識は死活問題ですし、みんなが気になることですから、おのずから合理的思惟の対象になっていったでしょう。
これに対し、内陸で発達した古代中国では、星の運行と言っても陰陽5行説・易経のような訳の分らない(私だけか?)考えになって行ったのでしょう。
訳の分らないというのは言い過ぎかもしれませんが、信ずるものが信ずるというだけの運命論で、科学的検証に耐えるものでないことは確かでしょう。
海洋国家や沙漠社会で、陰陽5行説的な星の見方で航海や旅をしていたのでは、遭難してしまうのではないでしょうか。
他方日本では重視されている仏教では、宇宙論がありますが、それとても曼荼羅に描く程度の世界であって、西方十億土の世界とかの比ゆ的表現で客観的・精密なものではありません。
仏教も今のネパール近くの内陸で生まれた宗教ですから、森林の隙間から洩れ出る星空を観察した程度で、実用の学問にならなかったでしょうから、この点は中国世界と50歩百歩と言う所でしょうか?
未発達であったからこそ、アジアではこの分野での思想的締め付けもなかったと言えるのです。



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