11/01/05
中国では、過去の混乱期に於ける異民族の侵入は、せいぜい五胡16国など西域諸民族の流入程度でしたので、これらはそのまま漢民族に吸収していけばよかったのです。
モンゴル軍や女真族の侵入は、体制末期の混乱とは関係がありませんが、それでも結局は殆ど漢民族に吸収されてしまったと言えるでしょう。
ちなみに漢民族とは、周辺異民族が次から次へと混入して出来上がった概念です。
今度は欧米列強が狙っているのですから、吸収するどころではありませんし、混乱しているヒマがありません。
この立場では、兎も角現体制を立て直して、一丸となって欧米に対抗するべきであって、家の解体・建て直しなどしているヒマがないということでしょう。
和魂洋才の日本との違いについては、中国人学者の書いた論文を04/10/05「不平等条約改正に対する日本政府と清朝の違い(漢承秦制の思想と社会の停滞)」のコラムで紹介したしたついでに、西太后や変法自彊運動のことも少し書いていますので、参照してください。
当時(日清戦争当時)は清朝で辛亥革命(1911)が起きるとは、まだ誰も予測できませんでしたから、閔妃は結局
「西太后の真似をすればいい」
と思ったのかもしれません。
ただ、中国と違って朝鮮の場合は、改革派の後ろ盾として日本がついていたので、保守派が武力弾圧を徹底できなかったことが大きかったでしょう。
却って保守・王党派が、ロシア公使館に逃げ込んだので、攻守ところを変えていたのです。
そのころのロシアは、満州を手に入れた上で、朝鮮半島に持つ利権を手がかりに明確な南下政策を取りつつあったことはご承知のとおりです。
当時の日本は、ロシアと戦って勝てるとは思っていなかったので、外交努力で衝突を避けようとしていましたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していったのです。
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