11/01/05
日本と朝鮮との経過した経験の違いに気付かずに、日本が朝鮮に日本流の近代化を迫ったのが、日韓や日清の共同歩調を妨げ、今につながる反目になっているのかも知れません。
李氏朝鮮の実力者たちは、日本の説得で「和魂洋才」でやればいいじゃないかといわれても、そのとおりにやっていると国がガタガタになることを、本能的に分っていたでしょう。
大院君は、日本の説得には耳を貸さなかっただけでなく、しまいにはミンピも西太后らと同じ方向へ動くしかなかったのです。
中国でも同じで、近代化路線への変更は、旧体制と矛盾することが直ぐにわかったでしょうから、西太后らの勢力がなお強い時代でしたので、体制をガタガタにしてしまう近代化勢力を葬ってしまった(戊戌の政変)のは、必然だったのです。
日本でも安政の大獄がありました。
西太后ら体制側にとっては、近代化して国運が上昇するかどうかよりも、現体制の維持が出来るかどうかの方が大事だったともいえます。
仮に彼らが、国のためならば現体制がどうなっても良いという立場であったとしても、何十年もかかる混乱を経て、改革するのでは、その間に欧米列強に食われてしまうという危機感もあったでしょう。
中国の歴史を見れば、一つの王朝が内部矛盾で倒壊すると、その後百年単位で混乱するのが普通です。
辛亥革命(1911)以後中共軍による統一までは、40年くらいしかないのですから、今回は短いほうです。
これは、内部矛盾で起きたこれまでの王朝倒壊と違って、外圧と内部矛盾の合体だったからではないでしょうか?
ついでに年号で押さえておきますと、1949年12月に国共内戦に敗れた中華民国政府が、首都を台北市に移転して、なお抵抗しますが、1955年までには現在の実効支配地域以外の支配地(大陸)を次々と失って、内戦が収束するのです。
(太平天国の乱=1851〜1864から、カウントすれば約100年で普通ですが、政権末期の混乱からカウントすると唐も漢も、混乱期はもっと長いのです。)
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