自白強要をなくすには?3(自由心証主義と裁判所の体質)
裁判官・司法部に限って、戦後の民主化のための公職追放がなかったので、戦前のやり方をマスターした(すなわち骨の髄まで沁みこんだ)ベテランが、戦後もずっと指導者のままでした。
戦前の自白偏重実務で育った人たちベテランが、事実認定の仕方や勘と言うか、この程度の証拠があればいいとか足りないとかの実戦教育者として、戦後新しく任官してきた若手裁判官を指導してきたのです。
敗戦による価値観の大転換、さらには新憲法、新刑事訴訟法で、基本的人権尊重が繰り返し強調され、自白には補強する証拠が要るなどとなったのですから、
「これからは自白だけでは駄目だ。」
と言う意識改革はあったでしょうが、実際は、自白偏重の戦前と実質が変わらないまま(長年の間には少し変わりますが、変わり方が微々たるものだったと言う意味です。)運用されていたのです。
もともと、自白がないのに認定するのは、神ならぬ身、(その恐れが古代の神判になったのです。)とてもしんどいものです。
生殺与奪の権を持ちたがったり、決定者になりたい願望は誰にでもあるのですが、他方で、殆どの人は、責任を取りたくないものです。
裁判員法が出来ても、「そんな重大なこと自分には出来ないから辞退したい」と言う意見が多いのです。
どうせなら、自白があれば、裁判所としては、念のため被告人の後見人になったつもりで、検察官の請求に誤りがないかどうかだけ慎重審理すればいいのですから、重箱の隅をつつくような細かい審理をしても気楽なものです。(役人の得意とするところです。)
検察側も被告人が否認しているよりも、みずから、申告している方が楽に決まっています。
否認している裁判ばかりでは、検察官も神経が磨り減ってしまうでしょう。
こうして訴訟関係者全員に「自白があればいいなあ」と言う願望が共有されて、なかなか自白を求める風潮が改まらないまま現在に至っているのです。
裁判所が自白を求めるし、重視する以上は、裁判を究極の目的にしている検察・捜査機関側も自白獲得に必死になるのは、仕方ないでしょう。
事実認定が戦前とどう変わったかについては、外部から分かり難いし、事実は一回きりで検証不能ですが、勾留と保釈制度については、検証可能ですので、その運用結果を見れば、裁判所の保守的というか戦前の理念そのまま自白を求める体質が浮き彫りになります。
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