10/13/07

身寄りのない老後・死亡2

この時代には子供のいない人は珍しかったのですが、子供が立派過ぎて遠くで活躍していると、身近にいない寂しさのことに関心が行ったのです。
今になると、普通の人・・大手企業の役員になった程度の人も子供に恵まれない人が多くなりましたから、最期は一人ぽっちで淋しいことになる人が多くなりました。
お寺の本堂の縁側で、子供が立派になるのも、長生きするのも考えものだ・・人生と言うものは、分からないものだと感じ入った次第です。
ところで、人は死ぬときに、何故身寄りに囲まれて死にたいのでしょうか?
孤独死はいやだと言いますが、死ぬときにどうせ意識朦朧状態になるなら、身内に囲まれていても囲まれなくとも同じような気がしますが、死んだことがないので分かりません。
最近は、医療の発達で、いざ、死ぬときは意識さえ何日も前からないことが多いのですが、昔は、若くて基礎的体力はあるのに、特定の病気を治せないために死ぬことが多かったので、死ぬ間際まで体力的には元気がありましたから、辞世の句をひねったり、一人ひとりに別れを惜しんだりする暇があったのでしょう。
死出の旅路に立つにあたって、何となくあの世の様子が分からなくて心細かったから、そういう見送りが必要な気がしたのでしょう。
いわゆる「今生の別れ」と言うもので、なぜか死にあたって別れを惜しみたい気持ちになるからでしょうが、こうした考えはあの世とこの世の2つの世界があると言う考えが行き渡った後に生まれたものではないでしょうか。
お釈迦様の涅槃に入るときの様子は、後世の人の願望で描いた可能性があるので、(まして日本仏教は中国経由ですから、中国人の思想が入ってややこしいのです。)お釈迦様もそういう気持ちだったとは限りません。
元気なままで、「じゃ、アバヨ!」言える死に方が出来る、古きよき時代?が終わって、満身創痍・・チュウブで繋がれて、口も利けない期間が何ヶ月も経過した後に、意識混濁のまま旅立つ時代には、今生の別れを惜しむチャンスすらありません。
こう言う時代には、運悪く、一人住まいのアパートで死なない限り、どんな貧乏人も金持ちも等しく病院で死を迎えますので、孤独死など関係がないのでしょう。
そうなると、他人と身内の違いがどこまであるのか?と言うことになってきます。
ただ、子供が育ってからつくづく感じることは、母親と言うのは、いつかは、子供に逢いたいと言う願望をじっと抑えて生きているので、死ぬ間際には、一目子供の顔を見て見納めをしたいと言う気持ちになるのかもしれません。
ただし、そのためには、死のずっと前・・元気な内に会っておくことです。
辞世の句も、今生の別れも元気な内に・・死ぬ病気かどうかも分からないうちに遺言のように、予めすませておくべき時代が来るかもしれません。
それは今生の別れの基礎であって、孤独死とはまた違うでしょう。



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