10/20/06

衡平法裁判所 4(コンモンローとの調整)

この混乱は、ジェームズ1世の1616年に国王の裁断によって,普通法と衡平法とが抵触する事項に関しては、衡平法が優越すると決定されました。
それまでは二つの裁判所が並列していたのですから、我が国で言えば、幕府と朝廷の2頭立て政治に似ていました。
王様の裁判所が優越するとは、言わば、絶対王制の宣言みたいなものです。
民衆に基礎を置く慣習法・コモンロウに対する王権による裁判所の優越ですから、絶対王政確立のプロセスとも言えます。
その後も両者の抗争が続きましたが、およそ250年後の1873年に裁判所法が成立し、両者を統一する最高裁判所が設立され、どちらの裁判所もどちらの法によって判決しても良いことになったのです。
言うならば、裁判所だけ統一して法は並列のままですから、このとき民衆と国王の手打ち・・妥協が出来たと言えるでしょう。
このときやっと、イギリスも世界国家らしく、ローカル法であるコモンロウばかりではない、ローマ法適思考も取り入れた裁判が統一的に運用されることになったのです。
1873年と言えば、日本の明治5年ですが、版籍奉還・廃藩置県で法的にも統一国家になったのは明治4年ですから、日本の方が統一法の適用としては早いことになります。
もっとも、明治4年は、版籍奉還によって法的に統一国家になったというだけであって、ローマ法の精神が入った法律が施行されたのは、民法典論争を経て(平成15年6月4日のコラム4民法典論争1,2参照)今の民法が出来てからですので、さらにおよそ30年近くも後のことです。
それまでは、法典と言えるようなものは、殆どの無かったのですから、威張れたものでは有りません。
明治の法典編纂の経緯については、07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載しました。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資