10/16/06
権限委譲社会1(天皇の国事行為の縮小1)
各裁判機関(以前に書きましたが、正確には裁判と言うよりも、単なる処罰手続だったのです)は、奉行、代官が裁判の責任者であるものの、奉行等が出廷するのは、冒頭手続きまたは判決の告知だけであって、実際の審理は、下役人が行っていたのです。
と、教科書に書いてあるものの、既に09/30/06「江戸時代の裁判7(奉行の役割)大岡政談の不存在1」で紹介したように、当時の犯罪数の膨大さから言って、冒頭手続きや判決の告知も全部奉行自身が行なっていたとは、到底考えられませんから、奉行の名で言い渡していたと言うのが正確でしょう。
権限が次から次へと、下位の機関に移って行くのは、昔からの日本の習性と言えるでしょうし、こうした権限移転のない中国や世界中の国は、日本から見れば変わった社会だと思います。
(こう言う場合には、日本だけが、変わっていると言うのが正しいのでしょうか?)
中国の皇帝は、始皇帝に始まって漢から清帝国が崩壊するまで、すべて親裁でしたから、朝から晩まで、はんこを押すのにくたびれ果てていたと言うのですから、日本から見たら変なくにです。
徳川将軍は、町民や武士の死刑について一々判を押してはいなかったのですから、よその国の王様に比べてかなり楽でした。
何しろ判決は、将軍の名で出るのではなく、奉行の名(場合によっては老中の名)で出るのですから、メクラ判さえ押す必要がないのです。
明治憲法や現憲法では、法律の公布には、天皇の御名御璽が必要ですが、これは中国を含めた世界中の慣習である王様の仕事だと言う思想の引継ぎで、憲法にもぐりこんだものでしょう。
しかし、こんな瑣末な(?)ことまで天皇がやっていると疲れ切ってしまうのではないかという視点から、06/04/04「天皇家の存在意義8・国事行為6(憲法63)」前後のコラムで、憲法改正の必要性を書いた事があります。
日本では、古来から天皇自らの名で出す文書などは、滅多になかったのです。
法の支配の時代ではなかったので、今のように膨大な数の法律を作ることもなく、時々勅願など発すれば足りたでしょう。
朝廷の評議(公卿会議)の結果は、天皇のサインではなく、左右大臣の連署で足りたのではないでしょうか?
今でも、会議の結果については、議長がサインするのではなく、議事録署名人は別にいるものです。
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