10/16/06
江戸時代の裁判制度8
幕府の裁判制度に話が戻りますが、裁判機関としては、江戸に評定所が一座、(今の最高裁判所的機能)寺社、町、勘定の3奉行、道中奉行、全国各地には、遠国奉行、郡代、代官所等がありました。
と言っても、3権分立の考えではなく、行政官が司法官を兼ねていたことを繰り返し紹介しています。
評定所が、主として司法を担っていたのを除いて、一般に行政役所が裁判所を兼ねていたのです。
当時の刑事処罰は、行政執行に従わないものに対する処罰機構と言うイメージでしたから、行政のトップがその処分権も持っていたのです。
国王や将軍の行政施行権が、大臣・老中さらには各種奉行・代官に降りるに従い、行政に対する違反者に対する処罰権も、これら下位の行政執行者に移って行ったと見れば分かり良いでしょうか?
裁判所が行政の意向を重視しがちなのは、こうした歴史が、DNAとして今でも残っているからかもしれません。
これまで書いているとおり、当時は裁判とは言わなかったし、判決とも言わず、あるいは、告知とも言いませんでしたので、これは多分教科書も今の言葉で書いているだけと思って御読みください。
(実質的にも現在の裁判と同じではなかったのです。)
3代将軍家光までは、将軍直裁もしばしば行われていたのですが、5代将軍綱吉が元和元年に(1681年)越後騒動を直裁したのを最後に廃絶しました。
以後、将軍は、老中の進達する伺いを裁決するだけになり、老中も当初は事実審裁判官として、自ら裁判(今の言葉ですから正確には処分官と言うべきでしょうか?)していましたが、4代家綱の寛文8年(1688)以降は、評定所の裁判に列席するだけとなりました。
もっとも、老中は、上級武士に対する処罰の言い渡しをしたりして、幕府司法の最高責任者の資格は、最後まで持っていたようです。
この他、映画などで有名な火付け盗賊改、大目付、目付けも一定限度の司法権を持っていたのですが、火付け盗賊改は警察官・・捜査取り締まり的権限、目付け大目付は、その名のとおり監察官的権限が中心的権能だったでしょう。
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