10/04/06
千葉の歴史34(戦後の工場進出と、千葉人22)(千葉県人と勤勉革命の素通り9)
進出企業に就職すれば、労働基準法どおり休みがあるし、労働組合もあるし、と言うことで、千葉湾岸のコンビナート群は戦後アメリカから入った労働基本権のモデルのような工場群でした。
ここで言う千葉人とは、縄文以来の漁撈をしてきた民族が、工場用地埋め立てのため補償金を貰って、陸にあがった人々です。
東京湾に面した内房の漁民が補償金を貰って陸に上がったことは、06/20/05「入植と先住民の関係1」前後のコラムで紹介しました。
でも、縄文以来気楽な生活をしてきた千葉人としては、せっかくの権利だからと県からせっつかれて就職してみたものの、朝から夕方まで、目一杯働かされるのには驚いてしまいました。
「やってられないよ!」
とばかりに、短期間で殆どやめてしまったらしいのです。
海岸が埋め立てられるまでは、貝を拾って生活できたのですから、とてもじゃないけど、毎日決まった時間に出勤して1日中続けて働くのは、・・・休憩時間はありますが、自分で自由に休むことも出来ないのでは、きついですよね。
次々採用しても、千葉人は直ぐ辞めてしまうので、進出企業も困ってしまって、やむなく群馬県などから、もうちょっと骨のある労働者の受け入れをするようになり、いつも間にか湾岸コンビナートの工場群の労働者はよそ者に入れ替わってしまったと言う訳です。
もちろんこのことは、県との意見交換をした結果ですが、企業側から
「いくら千葉人を入れても辞めてしまうので・・」
といわれて、県も立場上、
「労働条件に問題がないか?」
などと言っては見るものの、日本最先端工場群で最高の労働条件ですから、一応言ってみるだけと言うことで終わりです。
こうした実態から、現地採用割合の比率を引き下げざるを得なくなって、いつの間にか現地採用条件をうやむやにせざるを得なくなったらしいのです。
こうして、京葉工業地帯の労働者は、昭和30年代後半〜40年にかけて、群馬県や九州の元炭鉱労働者等他県出身者に入れ替わってしまったらしいのです。
千葉の工場労働者には群馬や埼玉など関東周辺部の山脈・・山麓付近出身の人が、結構多いのはそういった結果です。
埼玉や茨城などの田園地帯からの人材流入が少ないのは、似た環境ですから、気質も似ていて、変り映えしなかったのでしょう。
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