10/04/06

千葉の歴史32(戦後の工場進出と、千葉人20)(千葉県人と勤勉革命の素通り7)

この連載は、元々川勝先生の勤勉革命、海洋史観に対し、私は一部反対意見(千葉は違うのではないか?)の感想から、このシリーズを書いていたものですが、既に3年近くも期間が開いているので、川勝先生の勤勉革命、海洋史観自体をお忘れの方が多いでしょう。
海洋史観については、12/06/03「千葉の歴史4(千葉県人と海洋史観1)以下で連載していますので、読み返してみてください。
服役と言っても晴天の日には、城内外の掘り浚え、井戸普請、道造りに、作事役人監視の下で従事し、雨天には、小屋内作業場で、藁細工などに従事するものでした。
ホワイトカラー中心の現在と違い当時は、農作業的労働にはみんな慣れていたでしょうから、上記のような仕事に従事すること自体が辛かった筈が有りません。
今から考えれば、この程度の仕事ならば、出稼ぎ労働者の飯場暮らしと大差ない上に、今よりも労働時間がぐっと少ないのです。
これでは、食が保障されている上に、誰でも働きたいくらいだと思ってしまいます。
しかし、西洋の農奴的小作と違い、我が国の農作業は自分の判断で、その日の作業手順を考えて行なう自由なものでしたし、時々しか働かなかった当時の社会では、この程度でも、時間を拘束されることなどを含めて結構きつかったのでしょう。
これでも結構懲罰的効果が、あったのですから平和で豊かな時代だったのです。
ここで、日本初の刑務所の服役の程度が、今の労働事情と比較すると、結構ゆるかった話から、 平成17年6月28日「千葉の歴史31(千葉県人とは19)」の続きに話がもどります。
明治時代の勤勉革命の素通りで、何故千葉は取り残されたかのコラム連載途中でしたので、刑務所の話が出たついでに、戦後千葉に川崎製鉄所(現JFEE)など大手工場が進出したときの話をしましょう。
勤勉革命のテーマで言えば、12/17/04「千葉の歴史10(千葉県人と勤勉革命の素通り6)(仙台伊達家の場合1)」のコラム以来となります。
上記連載で、明治維新で東北諸藩は辛酸をなめて勤勉革命が浸透したのを紹介してきましたが、千葉県は、明治維新の激動期にも無事だったので、明治維新という千載一遇の大激変の機会にも、勤勉化するチャンスがなかったことを書こうとしている内に、話が横へ横へと流れてしまったのです。
ところで、06/15/05「千葉の歴史25(千葉県人とは14)縄文から弥生への過渡期」のコラムで紹介した小金の牧、佐倉の牧への入植では、江戸時代末かと思って書きました。
しかし、昨年9月に地元研究家の講座を聞いてきたところでは、明治2年ころに江戸の食い詰め失業者対策としての国策で、この4万6千町歩の土地に送りこまれたらしいのです。



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