10/03/06

公事方御定書の刑罰8(追放刑はどうなったか)

江戸時代末4年間の、刑罰の実数の紹介の内死刑について紹介しているうちに話しが横に行きましたが、その続きです。
寛政の改革で人足寄せ場ができたのですが、幕末4年間の実績では、それでも、遠島刑は、103人、内訳は八丈島33人、三宅新島各26人、蝦夷地18人となっています。
「島流し」と言うと八丈島を想像する人が多いと思いますが、八丈島がおよそ、3分の1を占めているだけで、圧倒的に多かったわけではないことが分かります。
追放刑は、総数403人で、その約80%にあたる318人が、人足寄せ場に一旦送られています。
人足寄せ場は一種の執行猶予みたいなもの、あるいは、現在、自動車運転免許停止処分を受けたときに、何時間か講習を受ければ、免許停止期間が短縮する制度がありますが、これと似たものだったのでしょうか?
いずれにせよ、ここで真面目に働いて合格すれば、追放刑がなくなるような感じです。
以上は私の勘だけで書いていますが、人足寄せ場で、どの期間働いたら、その結果どうなると言う正確なところは、研究が進んでいないのか、それともそこまで教科書程度の本には書く必要がないと言う考えでネグっているのかのどちらかでしょう。
幕府は熊本細川家のように、追放刑の完全な廃止は出来なかったけれども、矯正という目的に、少しずつでも近づいて、実際の追放が減少していったことがわかります。
逆からみれば、幕末でも、まだ20%もの追放刑の実施があったということにもなります。
ただし、敲き、(たたき)入墨は、圧倒的に多くて、総数3795人にものぼっています。
うち、人足寄せ場に送られたのは、700人18%に過ぎません。
熊本細川家の真似をして、人足寄せ場を作って見たけれども、何と言っても江戸のは町の規模が大きくて、犯罪者の数が多くて、全部収容できなかったからでしょう。
10/01/06「公事方御定書7と刑罰の種類7(死刑数の今昔1)」のコラムでも書きましたが、田舎で、犯罪者の少ない熊本とは大違いだったでしょう。
中期的刑罰の代表的刑罰であった追放が、後期には、吉宗の新設した、敲き、(たたき)入れ墨に入れ替わっていったようです。
実際、追放刑は受け入れ側(例えば八丈島側の都合)のキャパシテイの限度がありますので、無制限に増やせなかった面からの制約もあったでしょう。
八丈島の例で言えば、一回受け入れると、その人が死ぬまでいるわけです(期限のない場合とある場合があったでしょうが・・・)から、累積すると大変な数になります。
これが、追放刑よりも死刑の方が多くなった原因かも知れません。
それにしても死刑が年間100人以上ですから、追放刑よりも多かったのは、驚きですが、幕末動乱期(治安の乱れ)を反映しているもので、江戸時代全部の特徴とは言えないと、どこかに書いてありました。



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