10/21/05

エジプト5(サダト変節

彼ナセルは、イラクのフセイン大統領のように失脚前に死亡したので、名声だけが残ったのがせめてもの幸せでしょうか?
後を継いだサダト副大統領は,1973年の第4次中東戦争を仕掛けますが、これも見事に負けてしまいます。
第四次中東戦争とは、1973年10月6日から同月22日(?)まで、イスラエルとエジプト、シリアなどの中東アラブ国との間で行われた戦争で、イスラエル側ではヨム・キプールの日に行われたためヨム・キプール戦争、アラブ側では10月戦争ともいうらしいです。
第3次ではイスラエルの先制攻撃になす術もなく負けたので、こんどはアラブ側により、ユダヤの重要な祭典の日を狙って奇襲攻撃で始ります。
このときは奇襲攻撃ですので緒戦は、優勢だったのですがイスラエルに反撃されると、直ぐに負けてしまい、スエズ運河は結局占領されたままで、米ソの仲介で停戦となって今日に至っているのです。
これではいくら戦っても展望が開けないのとソ連に頼ってもどうにもならないことが分ったので、サダト大統領はこれ以後、反ソ親米路線に政策を変更して1975年にはスエズ運河再開にこぎつけます。
膨大な運河収入が途絶えていたので、財政的に参っていたのです。
エジプトは石油が出ませんので、運河収入しかなかったのですが、その分他のアラブ諸国(サウジの石油は30年代後半ですが、その他の国が産油国になったのは、戦後のことです)よりも早くから資金的余裕があって、しかもその運河がイギリスに押さえられていたのですから、早くから民族意識が芽生えたのでしょう。
また石油と違って、運河の方は国有化するだけで、その運営の技術はそれ程難しくないので、収入が100%確保できる単純さが良かったのです。
石油の方は国有化しても、その販路や精製技術など克服すべき問題点が多すぎて、ナセルのように勇ましくやることが出来ません。
ともかくエジプトとしては、運河閉鎖のままでは、自分の首をしめているようなものですから、仲直りして再開しかなかったでしょうし、1977年11月にはイェルサレムを訪問し,2年後イスラエルと単独の平和条約を結びます。
このため,エジプトはアラブ世界で孤立し,国内でもイスラーム原理主義者を中心とする反政府運動が高まり,1981年10月6日,第4次中東戦争戦勝記念軍事パレード閲兵中に,サダト大統領は兵士ら4人から銃撃され死亡しました。
この場面は、私たち家族が旅行先のホテルでたまたまニュースを見ていたところ、そのニュース画面の最中に撃たれるシーンがあったので、劇的な記憶として残っている次第です。



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