10/20/05
近代のエジプト王朝も、この機会に見ておきましょう。
近代王朝は、アルバニア人のムハンマド・アリが、フランスのエジプト遠征に対する応援軍として組織された軍に参加して、次第に頭角をあらわし、最後はオスマン帝国のエジプト総督になったのに始ります。
当時は、オスマン帝国は弱体化の一方でしたから、次々と帝国内での地方総督が反旗を翻したり何かと帝国の言うことを聞かなくなってきます。
彼はまだ若手で頭角をあらわしたばかりですから、独立志向までは行かない状態で、むしろ帝国側の若手将軍として、帝国内の独立志向者の鎮圧出動などで、あちこち転戦したりしながら帝国内の地位を高めます。
こうして、エジプト総督に上り詰めると、今度は自分が独立を要求する番です。
3国誌で有名な魏の司馬懿(しばい、179年 - 251年)に始り、司馬炎が禅譲を受けたのと同じです。
最早オスマン帝国内部では、彼の独立志向を阻止できる人材はいませんので、成功するかに見えたのです。
ところが、当時じわじわと帝国内に地歩を築いていた、列強の英仏露がこの騒動に介入して、結局英仏露などの圧力により総督の世襲を認められただけに終わりました。
折角世襲が認められた途端に息子が死亡してしまうなど不幸なことで、これも次第に英仏の支配下に入り、1879年には4代目が退位を余儀なくされます。
その後第1次大戦でのオスマントルコの敗戦により、正式にイギリスの保護国になってしまうのですが、この間、英仏の確執が当然熾烈でしたが、結果的にイギリスが制したのです。
エジプトは地域大国ですので、少し詳しく見ておきますと、民族自決運動の高まりで、1916年ザグルールを中心にワフド党が結成され,1919年エジプト全土にわたって反英運動が展開されます。
この動きを重くみたイギリスは、(フランスと違ってしたたかですから)1922年いくつかの留保条件を付して保護権を放棄,エジプトの独立を承認します。
1922年ワフド党を中心にエジプト王国憲法が制定され,ファードを国王とするエジプト王国が成立,翌年ザグルールを首相とする民主主義政権が誕生しました。
関連ページリンク
稲垣法律事務所コラム内:政治家に関するコラム
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
