10/16/05

西洋植民地支配王制存続2(中東諸国王制・・サウジ

サウジの歴史は詳しくは知りませんが、少し経過を見ておきましょう。
ディライヤを首都とする第1次サウド王国は、オスマン帝国(トルコ)のエジプト総督ムハンマド・パッシャに攻められて敗退し、リヤドに引っ込みます。
そしてツルキ・イブン・アブダッラが1824年第2次サウド王国を建国し、リヤドを首都とします。
今の繁栄したリヤドを想像すると間違いますが、当時はホンの少し木の生えている程度のオアシス・・寒村でしかなかったそうです。
リヤドとは、そう言う意味らしいです。
 第2次サウド王国はその後サウド家の内部争いで衰退し、1893年オスマン帝国の支援を受けたラシード家に占拠され、サウド家は東部州から最後はクウェイトへと落ち延びて勢力を失います。
 1902年に、後にサウジ建国の王となる若き日の「アブドゥルアジズ」は、H1319年10月5日(西暦1902年1月15日)リヤドを支配してしていたラシード家の総督アジュランに勝ち、第3期サウド王朝を復興させます。
このときが現サゥド王家の建国記念日になっているそうです。
 その後1926年に現在の西部州、当時はヒジャーズ(Hijaz)と呼ばれていた地域を併合し、アブドゥルアジズはアラビア半島を平定し、1932年サウジアラビア王国が独立したのです。
まだこのころは石油の発見がなく、アラビアのロレンスの活躍するべドウイン族の遊牧するのどかな社会でした。
この30年代末ころにに石油が発見されてからの、サウジとアメリカの関係は、ご存知のとおりです。
後に書きますが、1950年代初頭にエジプトでのナセルによる民族革命がおこり、革命の輸出が始ります。
その波及を避けるためにも、サウジ王家はアメリカの後ろ盾を必要とし,アメリカもアラブ民族主義革命の影響拡大防止に必死でしたから、利害が一致したのです。
この点は、イランのパーレビ国王も同じだったでしょう。



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