10/15/05

日韓併合2(体制維持大院君

日本は明治維新後も、朝鮮に使者を送り、朝鮮が中国からの冊封体制から脱却して、開国して近代化し独立国として日本と一緒に欧米に対抗しようと申し出ていたのです。
09/20/05「遣唐使の役割2(孤立と独立)」のコラムでも紹介しましたが、元々李氏朝鮮は、日本のように完全な独立国であったことはなく、中国から冊封されている属国という立場だったのです。
飽くまで、中国の属邦でいいのだという頑迷さで、話にならなかったのです。
(これまで書いて来ましたが、長い間日本を馬鹿にするのに慣れていましたから日本の話などテンから聞く耳がなかったのです。)
日本と違って朝鮮では独立国としての歴史経験がないのですから、戸惑った面もあったでしょうし、中国から独立するというのは一種の謀反ですから、信奉しきっていた儒教道徳からも、簡単に呑めなかったかもしれません。
日本の提案は、会社員や自民党で言えば一緒に独立しましょうと言う提案ですし、朝鮮というか既得権者・・・・・・大人と言うものはいつでもリスクの心配の方が先に走るのです。
特に当時は、いわゆる大院君(1820年生1898=明治31年没)と閔妃の対決時代です。
勿論中国としては、朝鮮は自国の属国であると言う立場ですから、日本の提案はいま流行の「アジアでは孤立した」主張になります。
そうは言っても、朝鮮の動きもそう簡単ではないので、簡略に素描しておきましょう。
ともかく、着々と勢力を蓄えた閔妃(ミンピ)はその後 大院君を隠居させ、いわゆる勢道政治を展開するのです。開化派の閔妃が、日本と江華島条約を結び、開国になります。
その後軍近代化のために、日本から士官を招いたりします。
ところが、これに不満を持った旧式軍隊の方は、対立していた大院君にそそのかされて、別技軍(洋式軍隊や閔妃を攻撃し、さらには日本公使館員が殺されたりの大政変(壬午事変1882)が起こりました。
いち早く事変を察知した閔妃(ミンピ)が難を逃れ袁世凱の保護下に入ります。
このとき袁世凱の保護下に入ったことが、閔妃(ミンピ)の政治的立場を急展開させ、その後の朝鮮の動きをややこしくし、日清日露の両戦争を引き起こすもとになっていくのです。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

稲垣法律事務所コラム内:韓国、朝鮮に関するコラム


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資