10/06/05
この点李白になると、彼は自分の妻を「相門(宰相の家柄)の娘にして・・・」という、詩があることからわかる
ように、妻の実家がしっかりしていたので、妻子を養うのに苦労がなかったのです。
そればかりか彼の詩は杜甫みたいに暗くないので、彼自身あちこちに行くと地元有志の歓待を受けて豪勢に宴会している様子が彼の詩にあります。
以下は送別に際しての詩です。
南京(古くはは金稜城)での留別の詩を紹介しておきましょう。
白門柳花満店香 白門の柳花満店に香り
呉姫圧酒喚客嘗 呉姫酒を圧(こ)して客を喚んで嘗ましむ
金稜子弟来相送 金稜の子弟来りて相送る
欲行不行各尽觴 行かんと欲して行かず、各おの觴を尽くす
(いくら盃を空けても、名残は尽きない)
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省略
白門とは金稜城西門のことです。
当時金稜城は廃城になっていたらしいですが、詩人は、旧称で表現したがるものです。
長野へ行ったのを信州へ行ってきたという類です。
中央大学は東大の赤門に対し、白門と称しますが、駿河台に大学があったころは、西に向いて正門があったからそう言ったのでしょう。
ちなみに唐の太宗が、天下を握った「玄武門の変」と言うのがありますが、これは当然北門のことでしょうし、朱雀門と言うのは、南に向いた門のことでしょう。
中国では東西南北春夏秋冬を青(春・東)、白(秋、西)、朱(夏、南)、玄(北、冬)色で表していたので、いろいろな漢詩の表現では、その約束事で理解する必要があります。
わが国では、青春と言うのもこの由来でしょう。
(東を青で表したことに始り、若者を表すようになったのです)
本来若者の顔色は、健康なので肌色は白いものであって、(その気で見れば、老化してくると肌の色はくすんできます)例えば「白皙の貴公子」などと表現されるもので、青いものでは有りません。
これを青いと表現するのは、青=春、物事・人生の始まりと言う連想からでしょう。
東宮を春宮と書いたりするのも、この類で発達したものでしょう。
呉の姫とは、昔は呉の地だったから、伝説の美女西施に絡めて、ホステスをこのように表現したのでしょう。
李白のころは、科挙制がまだ完全に機能しておらず、家柄がよければ浪人していても食うに困らず、豪勢な流浪の旅を続けられた時代でした。
まして李白といえば、杜甫と違い天下にとどろいた詩人でしたから、日本の芭蕉のようにどこへ言っても大事にされたに違い有りません。
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