10/01/05
高麗の武将李成桂(1335〜1408、李朝の太祖)は、倭寇撃退で功があって頭角をあらわし、前回コラムで紹介した新興地主層の支持を得て、1392年に李氏朝鮮(1392〜1910)を樹立しました。
太祖(李成桂)は、こうした経緯から朱子学を官学として保護し、高麗末期から台頭していた中小地主層を両班にしたのです。
その後朱子学の本家中国で、異民族王朝(清朝)が興ったため、李朝の知識人達は
「真の中華思想を、我々が伝えなければならない」
という使命感に燃えていたと言われます。
このため江戸時代の朝鮮通信使は、凄く尊大で日本を見下していたとも言われますが、実際に儒学の研究では日本よりも進んでいたようです。
日本は江戸時代から、儒学を幕府の学問としますが、後に書くように日本は長年に亘って仏教を学問の基礎として来ましたので、儒学は飽くまでメッキにすぎなかったでしょう。
民族によって御互い関心が違うのですから、自分の尺度で相手を馬鹿にしても始らない例でしょう。
武家の上下関係も儒教道徳とは違って、本質的には、「御恩と奉公」と言われるようにドライな契約思想が基本でした。
君主(と言えるかな?)というよりも、いわゆる「頼うだる人」が役に立たなければいくらでも、見限ってしまえる社会だったのです。
応仁の乱以降の世の中を「下克上」などと言いますが、明治維新以降の表現でしかないでしょう。
武家の主従関係と言っても、一種の連合軍関係・応援でしかないのですから、それなりの恩賞や本領安堵が見込まれないならば、あちらについたりこちらについたりするのが、当然の価値観で武家は行動していたのです。
源氏と平家の話でも、千葉氏が平家なのに源氏についたり、源氏の畠山などが平家に味方したりしていることを、09/15/04「源平争乱の意義1(武家社会の到来を告げるもの)」以下の連載で紹介してきました。
これを「謀反だ」「下克上」などと言うのは、後世の価値観での作り話でしかないのです。
また儒教の大事な教えである「忠孝」の一つ「孝の道」も、江戸時代から物語などで、うるさく言われるようになっただけで、それまでは姥捨て山の話があるように、それ程でもなかったのです。
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