10/24/04

教育を受ける権利とは?3(憲法94)「自由に学べる権利1」

現在、小泉改革の一つ「三位一体改革」で議論になっている義務教育費の国庫負担廃止・縮小に対する問題意識も、文教族の関心は、教育内容というよりも「地方も都会も等しいレベルの教育を受ける権利」を前提として、「財政力の弱い地方はどうするのだ!」式の議論に訴えているようです。
「地域格差をどうする!」式の議論ばかりしていたら、そもそも、地方の独自施策(地方自治)などは全て成り立ちません。
競争の結果格差が出てこそ、努力のし甲斐があると言うものです。
話が横(地方自治)に行ってしまいますので、教育論に戻しますと、文教族(政治家)は今でも、国家が国民を教育すると言う視点で、地域格差を議論しているのです。
実際、そういうつもりで政府はこれまでやってきたのですが、これからは、国民が等しく、学習できるような環境を整えるように要求できる権利、国民は自分の子供の教育に関する当事者として、子供の成長に参画していく制度に変えていくべきでしょう。
明治のころは一握りのエリートしかそういう知見はなかったでしょうが、今では国民の大部分が、大学卒の時代ですから、原則と例外を逆転させて、歩いていけるところに小さな私立小中学校を乱立させて、自由な選択をさせるべきです。
自分で選択能力や資金力のない人だけが、公立に行けばいいのでしょう。
私立ばかりでは、お金がかかりすぎると心配する人もいるでしょうが、その点は、その分税金が安くなるので、税金を払ったつもりで学費を払えばいいのです。
今のように税金を払いながら、私立へ行くのでは、2重取りされているような気持ちになる人が多いでしょう。
トータルの費用を比較したら、役人任せよりもずっとコストが安上がりで、しかも親切ないいものになるでしょう。
教育を受ける権利の条文の場所は、生存権の25条の次にあるのですから、憲法制定当時の考えは、教育を受動的に受ける旧来型の基本的人権とは異なり、積極的に政府に施策を求める権利を想定していた可能性があります。
それだけでも、これまでの受動的な権利概念よりも、進歩的と言えますが、今になると、そうした「政府に要求していく権利」と言う考え自体が、古いと思うのです。
私の考えは、
「政府に要求して、より良い公立学校や美術館・博物館などを作って貰うよりも、その分税金を安くして貰い、自分の気に入ったところへ、自分の子供を入学させるようにすべきだ」
と言うものです。
団体としての学校だけでなく、カリキュラムに付いても同様で、保護者の意見を反映させるために意見交換会をやるのではなく、(そこまでやっている学校はないと思いますが、仮にやったとしてもという意味です。)学校運営者が勝手にカリキュラムを作ってくれて結構だから、その代わり保護者が気に入った学校を自由に選んでいける仕組みの方が、結果的によいものが出来ると言う考えです。
公聴会だの、審議会だの、意見交換会などは眉唾物であって、そんなことをしなくとも商売人は消費者の気に入りそうなファッションや新商品の開発にしのぎを削っているのです。
およそ、消費者相手の商売で、来年の商品開発や店舗内装やレイアウトなどを、公聴会やえらい学者の意見などで決めているところがどこにあるでしょうか?
いかにも客(国民)を無視しているところだけが、そんなまやかしをしているのです。




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