10/29/03

相続分3(民法105)(配偶者相続分の変遷1)(ホワイトカラー層・団地族の誕生)

07/19/03相続分2(民法79)のコラムの次に法律相談の事例の紹介をしているうちに話が横に行ってしまいましたが、やっと相続分に戻ります。
私が、弁護士になってからも、配偶者の相続分は3分の1でしたが、昭和55年の改正で、2分の1に引き上げられたのです。
戦後すぐに相続法が改正されたときには、子供が4〜5人いる家庭が普通でしたから、配偶者が3分の1でも違和感がなかったかも知れません。
その上、勤労者家庭が社会的に少数であったことと、勤労者の資産と言えば、取るに足らないものばかりです。
江戸時代の奉公人を想像するのは、行き過ぎかも知れませんが、大店で働いている人は、住み込みか、または長屋の住人(アパート)ですから、兄弟間で紛争になるような遺産は有りません。
従って、法律で決めなければならないような資産家と言うのは、殆どが、先祖代々受け継いで来た資産が、その大部分を占めていたのですから、嫁に来たばかりの奥さんが若い当主の死亡で、その殆どを相続してしまうのには抵抗があったのでしょう。
しかし、昭和30年代前半から始まった勤労者所帯の増加で、まず、ホワイトカラーがマンションや、分譲住宅を取得するようになりました。
このころから、先祖代々の家に3世代同居する生活スタイルから、核家族化が進んで行ったように思われます。
明治政府の富国強兵政策で、生めよふやせよの人口膨張が続き、子供が7人前後と言う家庭はざらでしたから、親子3世代同居は、長男だけを前提としたものですから、二三男以下は物理的にも、同居出来なかったのです。
戦災復興が一段落してくると、その受け皿としての住居として、さしあたりは、都心部でバラックのようなアパートの密集地帯が、自然発生的に誕生しました。
このままではスラム化してしまいますので、総合的な住宅の供給体制が模索されるようになりました。 
以下、簡単に日本住宅公団の変遷を見ておきましょう。
昭和25年には、住宅金融公庫が発足、翌26年には公営住宅法が施行され、地方公共団体による住宅協会や、住宅供給公社が設立され、金融公庫の資金で住宅が供給されるシステムが整備されました。
そして昭和30年には、戦前からの同潤会、住宅営団、公営住宅のノウハウを集大成した日本住宅公団法が制定され、高度経済成長時代の急速な人口増加に対する住宅供給の役割を担っていくことになったのです。  
日本住宅公団法が昭和30年法53号で成立し、いわゆる住宅公団が生まれました。
この法律は、激しい時代変化に合わせて順次改正されて、宅地造成、賃貸住宅など、目的を拡大変更してきましたが、昭和56年に、住宅開発公団と合併し住宅都市整備公団と名称が変わり、やや役割が変更された来ました。
その後住宅そのものが過剰になって、都市再開発が必要な時代になると、さらに、平成11年には都市基盤整備公団となって、現在にいたっています。
こうしてみると、一旦組織が出来ると、目的が消滅した後も、しぶとく生き残る原理原則みたいなものが、わかりますね。
話を元に戻しますと、政府は、新しく誕生したホワイトカラー向けに日本住宅公団を作って、東京で言えば、ひばりが丘などの団地造成に乗りだしたのです。
当時の団地族は、今で言えば、高給サラリーマン用でしたから、憧れの対象でした。
他方低所得者向けには、都道府県や市町村の仕事として県営住宅、市営住宅の建設が始まりました。
こうして、郊外型の生活様式が(団地族)、始まったのです。




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