10/27/03
教育改革23・・・・・なぜ、大学は大学校と言わないか?
明治になってからの用語変更の例から、教育改革に深入りしてしてしまいましたが、いよいよ、今回で、このシリーズは終わりです。
実は、この教育コラムを始めたときの関心は、大学と言う名称に対する疑問だったのです。
そして、このウオーミングアップのつもりで、ちょっと教育改革の歴史を書いているうちに長引いてしまったと言うわけです。
今回は、初心に戻って?大学と言う名称がどうして定着したのかについて、ちょっと考えてみましょう。
「教えることは、学ぶことでもある」と言いますが、「校」と言う文字は、互いに学ぶと言う意味ですから、児童相手の小学校よりも、一定の学識に達したものが研鑚しあうべき大学にこそ適当だと思われますね・・・・。
これまで見てきたように、教育令でも、正式には大学校としているのです。
それなのに、いつから大学校が「大学」と言われるようになったのかについて、私は疑問を持つていました。
日常の省略語として大学、小学、中学は、それぞれ、「校」を省いて発音しやすいことがわかります。
こうして大学と言う略称が、定着して行ったと言う見方も出来ますが、今でも中学生小学生とは言いますが、正式になると、・・・小学校・・・中学校と校門のプレートや卒業証書に書かれていますし、校長と言いますが、正式なときでも、大学は大学校とは言いませんし、大学校長といわず学長と言います。
他方、教育行政庁として成立した「大学校」が、明治2年7月には「大学」と改称された事は紹介しました。
教育機関としての大学の歴史を別に見ますと、1886年(明治19年)に東京大学が、設立されたときから「大学」と称しており、明治20年には、帝国大学令が公布されて、帝国大学の基本法となったことは、前回のコラムで紹介しました。
こうして見ると、省略表現の「大学」ではなく,わが国で初めて大学が出来たときから正式に「大学」と言う表示が使われていたことが分かります。
何故、学制や、教育令にかかわらず、大学だけは学校と言わず、大学と称したのでしょうか?
最上級学問所だけは、日本古来(律令制採用)からある「大学」にしたのは、四書五経の「大学」にこだわったのかも知れません。
それと、漢の武帝が皇帝直属の教育機関として官吏養成のために「大学」をひとつだけ、首都に設置した故事に倣った可能性もあります。
大学規則では、大学はひとつだけと明記されていたのです。
首都以外の京都大学が設立されたのは、やっと1897年のことですし、正式に私立大学が認められるようになったのは、かなり後、大正7年の大学令以降のことです。
こうしてみますと、学制や教育令で、耳慣れない大学校と規定されても、庶民はいざ知らず、高等教育を受けている学者などエリート族には何千年前からの権威のある「大学」の下に「校」をつけるなどは、浸透しなかった可能性があります。
そのうち巻き返されて、帝国大学令になったのではないでしょうか
でも、「学識の交換(切磋琢磨)」する場という意味では、明治の最初に考えたように「校」のほうが優れているのです。
それに、明治以降の大学は、「まなびや」・「場」としての大学ですから、四書五経の大学とは少し意味もずれていると言えますので、文部省が最初に大学校とした命名のほうが優れているのではないでしょうか?
これで、長かった教育改革のコラムは終わります。
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