10/10/03

教育改革15・・・・・明治政府と学制改革(大学とは)

明治時代の教育制度の基本には、中央集権国家の確立を目指す、長期的な視点があったことを紹介しました。
ここで、わが国の大学の歴史を別に取り出して見ましょう。
平成15年9月24日の「明治維新と学制改革(学制) 2(復古政策)」のコラムで紹介しましたように、明治2年6月には、昌平坂学問所を「大学校」と改称し、同年7月には、教育政策を担当する役所が、「大学校」と称して発足しました。
短期間ではありますが、文部省の前身が大学校といわれていたのです。
これで、大学校が二つ並存することになりましたが、同年12月には、教育機関である前記「大学校」(すなわち昌平坂学問所の後身)を「大学」と改称し、このときから、最高教育機関を大学と称することが始まっています。
前記コラムでも紹介しましたが、歴史的には、漢の武帝が、首都に大学を設けたことに範をとっているので、明治政府の発案ではありません。
明治政府は平安時代の官制がだめなら、奈良時代の制度と言う発想で、「明治維新と学制改革(学制) 2(復古政策)」のコラムで最初に学舎制を採用したことを紹介しましたが、外国の制度を取り入れるのにも、唐がだめならその前の大帝国漢の制度と言う発想でいたようです。
地方制度は、版籍奉還後紆余曲折がありましたが、結局今の県、郡制度に落ち着きましたが、これは漢の郡県制を逆さまにして取り入れたものでした。 
話を元の大学に戻しますと、翌明治3年7月に国学派・漢学派が本拠としている大学本校を閉鎖し、分校である南校(旧開成)東校(旧医学校)だけになって、本校である大学が設置されないままになっていたので、大学規則や教育令等で予定している最高学府としての大学は、設立されないままとなって年月が過ぎていました。
16年後の1886年(明治19年)に東京帝国大学が、廃校になっていた大学本校として設立され、ここにおいて、わが国初めての大学が誕生したのです。(すなわち南校と東校は吸収されることになりました。)
明治20年には、帝国大学令が公布されて、帝国大学の基本法となります。
帝国大学令は、国立大学の(今に引きずる)基本思想を決めた、重要で有名な文章ですから、帝国大学令の一部を紹介しておきましょう。
帝国大学令は、まず「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及真蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」と定め、第2条以下には帝国大学の組織・運営などに関する事項が定められています。
ここにおいて、官吏養成を主眼とし,国家に奉仕することを使命とする帝国大学が誕生したと言われています。
帝国大学または、現在の東大は、人材ばかり吸収している割に業績が上がらない理由について、「官吏養成目的だから仕方ない」としてこの条文が引き合いに出されることがありますが、「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及真蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」と言うのであって、必ずしも、官吏養成目的ではないのですから、自由闊達な人材が生まれないのは、帝国大学令にあるのではなく、官学であることによる宿命と言うべきでしょう。
大学は中央に一つだけとしていましたが、11年後の1897年に京都帝国大学設置後、(その後順次帝国大学が各地に設立されたことはご承知のとおりです。)帝国大学令は各帝国大学に共通に適用される法令となりました。
ただしそれでも、私塾は法的には大学ではなかったのですが、1918年(大正7)には,帝国大学を含む全大学に対する基本法規として、大学令が制定されたことはすでに書きました。
ついに、正式な私立大学の誕生です。




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