09/30/06
江戸時代の裁判7(奉行の役割)大岡政談の不存在1
ところで、専門書でさえも、奉行が何から何まで全部やっていたかのように、奉行がすべて刑を言い渡したり行政事務をやっていたかのように書く本が多いのですが、私は、こうした記述に疑問をもっていることは、18年8月27日・・・・3「刑事訴訟法51(「1通糺」と奉行の仕事)」のコラムで少し書きました。
私は、奉行は殆どの仕事を下役に任せていたのではないかと思っているのです。
ただし、当時の江戸は狭い上に町奉行の管轄は、武家地と寺社地を除き町方だけでしたので面積的には、江戸の町の5分の1という人もいますし、ある歴史講座で聞いてきたところでは、その先生は、町方は60%だったとも言いますので正確には分りませんが、いずれにせよ全部ではありません。
町方だけでは、そんなに毎日事件がなかったのかもしれません。
ちなみに、私が事務所を持っている千葉地方裁判所本庁(佐倉松戸その他の支部を除く意味です。)の管轄区域は、東京湾岸沿いの市町村だけでも、江戸川沿いの市川、浦安(東京デズ二ーランドのあるところです)から船橋、習志野、八千代、千葉、市原まであります。
私が弁護士登録した約30年余り前でも、管轄人口は200万を超えていたと思いますが、千葉地方裁判所の刑事部は当時1部(すなわち合議は一つです。)プラス単独一つしかなくて、それで間に合っていましたよ!
(現在では刑事だけでも3ヶ部で内部に別の合議部がありますので、実質4部ですが、それでも事件が多くて間に合わないくらいです)
江戸の人口は100万あったかなかったかと言うところですし、昔は交通事故(馬に蹴られたくらいかな?)も滅多になかったでしょう。
それに、今のように経済関係や選挙違反や覚せい剤、産廃の不法投棄事件等々もなかった上に、窃盗などの犯罪率も桁違いに低かったでしょうから、奉行1人が時々白州に出るくらいで、全部間に合っていたのかもしれないと思う方も多いでしょう。
そうは思うものの、ものごとは統計が重要です。
実数で考えてみますと、後に紹介しますが、幕末4年間の町方の統計では(武家は別にあります)死刑が427人、遠島103人、人足寄せ場700人追放100人となっています。
これだけで、有罪判決が年平均300人以上になっていますし、これに加えて、叩き、刺青などの軽微な刑の総数は3795人にもなっていますから、軽微事件だけでも年平均900件以上もあった事になります。
江戸時代は、「御仕置き除日」と言って、五節句や歴代将軍の命日などは申し渡しや執行をしない日になっていて、これだけで、年間の約半分を占めていたそうですから、上記の事件処理を全部奉行自身が出来るわけがありません。
破産事件で流行していた(今年から暇になったので?やめました)集団審尋みたいに、まとめて10人〜20人に、刑を言い渡すのもあったかもしれません。
さらに奉行は、町方だけでなく、旗本など武士の事件処理にも目付、大目付のほかに事件処理のプロとして奉行が参加することになっていたのは、前回の「武士に対する裁判制度」のコラムで紹介したとおりです。
奉行は、刑事だけでなく民事もやりますし、その上、江戸の行政責任者でもあったのです。
大岡越前を思い出してください。
老中との評議、将軍との相談など政治家としての仕事があったのです。
やはり、私の考えでは、牧英正氏外の本の解説に反しますが、奉行は、日常的な窃盗や普通の事件には出座していなかったと思います。
現在の地方裁判所所長が、裁判を担当していないのと同じように、行事や儀式ばかりに出席していて、自ら裁判をしていなかったのではないでしょうか?
こうして大岡政談のような事件処理は、事件処理の数から言ってもありえないことになります。
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