09/30/06
江戸時代の裁判6(吟味筋11)武士2
また、お目見え以上は、白州に出さず、座敷内で裁判しました。
拷問も出来ましたが、お目見え以上は、老中の許可が必要でしたので、滅多になかったでしょう。
庶民の口書にあたる調書を口上書といいました。(どういう違いがあるのか分かりません)
刑罰はすべて老中に伺い、5手掛、3手掛では大目付が、目付け立会いの吟味では奉行がそれぞれ判決を告知しました。
刑は執行されると老中に報告され、老中はその旨諸役人に触れを出すことになっていました。
これを封廻状と言います。
「子連れ狼」では「柳生封廻状」というものが出てきますが、この封廻状の変形です。
今、このまねをしているのはヤクザ組織で、組員の破門状等を廻しています。
時々会社などで、辞めた営業マンを取引先に通知している事がありますが、この一種でしょうか?
ところで、大老とか老中などの言葉をお聞きになった人が多いでしょうが、この機会にかいつまんで役職の説明をしておきましょう。
,「大老」は将軍補佐の最高機関ではあるけれども、常置機関ではなく、幕末の井伊大老のほか、全部で10名しか就任していません。
老中は御用部屋で執務し、2万5000石以上10万石以下の譜代大名から選任され、定員は、4〜5名でした。
これは奉行と同じで月番制でした。
老中は言うまでもなく、幕府の最高執行機関でしたが、寛永11年(1634)の職務定則によると、禁中並公家・門跡、大名、奉書判形・知行割、寺社、異国のこと等を掌ることになっていました。
「お目見え」というのは、将軍に直に面会できる身分、直参・旗本のことで、私が高校生のころの映画で市川右太衛門の主演した、「旗本退屈男」シリーズでは、しきりに直参の身分をひけらかす場面がありました。
鎌倉時代の御家人というのは、将軍家と主従関係にある武士(一定の領主層)のことでしたが、江戸時代になると、将軍家直属の家臣の中でお目見え未満だけを御家人といったのです。
言葉のインフレの例です。
大目付というのは、老中に属し、その耳目となって諸大名の監察にあたり、(だから「目付け」と言うのでしょう)元禄以降は、定員4名で旗本から任ぜられ、目付けは、若年寄りの下で、旗本、御家人の監察にあたりました。
目付けは人数が一定しませんでしたが、享保以降は10人が恒例になっていました。
忠臣蔵で、大目付多門伝八郎が浅野内匠頭からの事情聴取を担当したのは、これでお分かりでしょう。
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