09/27/06

証拠法則と事実認定の重要性5

このように殺人事事件では、情状によって、死刑もあれば、執行猶予まである、ほぼ無限大の可能性があるのです。
もしも私の主張するように、勾留をむやみに認めないとすれば、執行猶予になるような事件では、勾留の必要性のない事件でしょうから、結局何らの身体的苦痛・処罰を受けないで終わることもあるのです。
この大きな違いは、裁判所によるこまかな事実認定次第でどうにでもなると言うのですから、およそ罪刑法定主義からは遠い制度と言うべきでしょう。
これだけ幅が広がっているのならば、法律学者の仕事は条文の解釈よりも、どのような殺人なら無期懲役になり、どのような殺人ならば懲役15年になる、どういう場合には執行猶予にすべきだなどと言う細かな量刑基準を研究し、これを公表して行くことこそが必要ではないでしょうか?
現状では法律が公表されていると言っても「殺人はいけないんだってね」というだけのことで、条文だけいくら読んでも、どのような刑罰を受けるのか、まったく分からない仕組みです。
これでは江戸時代の「知らしむべからず」政策と本質は変わっていないのです。
公事方御定め書きや判例集の公表が禁止されていたことを紹介しましたが、現在も江戸時代と本質的には変っていないままです。
これを研究・公表してこそ、学者の学者たるゆえんではないでしょうか?
また、それと平行して、細かな間接事実の認定のルールも研究して、裁判所の恣意的認定を防止する必要があるでしょう。
現在では、裁判所あるいは検察内部だけで量刑基準が共有されていて、これに反したときには上訴で修正される仕組みです。
しかし、それでは反体制派に対する事件では、地裁、高裁みんなで基準を捻じ曲げても外部には分からず、外部からのチェックが効かないのです。
民主国家の要素は、財政であれ何であれ、外部からのチェックの有効性(世にいう透明性の確保です)の有無ではないでしょうか?
「内部で厳正な基準で運用しているから信用してくれ」と言うだけでは、どんな独裁国家でも・・信長の時代にも、内部基準はいつも厳しいものです。
内部基準が外部からチェックできるかどうかこそ、重要な要素でしょう。
この基準を我々弁護士は外から窺い知って、およその相場観でやっているのですが、こんな大雑把なことではなく、条文のように、1義的明確な基準がわかるように学者が研究発表していくべきでしょう。



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