09/26/06

証拠法則と事実認定の重要性2(事実認定分析)

政権からにらまれた者・・・グループが、先ず検察による恣意的検挙を受けて、これが反体制派弾圧に協力する裁判所が、
     「自由な心証で有罪を認定したんだよ」
ということで、無実でも有罪判決を書いて処刑するようになったのでは、叶いません。
自由心証主義と言うのは、証拠の法定が困難であるから、予め法定しないと言うだけであって裁判官が恣意的に事実認定してよいと言うのではないのです。
マスコミや政府は、「事実とすればきわめて遺憾な事態である」とか何とか、事実認定自体の批判をしないように心がけているようです。
普段から裁判所をないがしろにしている行政権力者が、こう言うときに限って、一見裁判の権威を守ろうとするのは、3権分立を尊重しているようでいて、実はそんなことよりも、裁判には無批判に従うべきだという教育を国民にしたいだけでしょう。
何しろ、昭和40年代の石田長官時代以降、長年にわたる裁判所に対する締め付けが功を奏して、いまや政府自民党にとっては、裁判所は100%体制支持組織であるとの自信があるから、言えることなのです。
話を戻しますと、現在では、裁判所は体制べったりですから、「裁判所は信用出来るから、丸投げで行きましょう」と言うのでは、民主主義・人権保障の観点から見れば、あまりにも危険です。
前回コラムで紹介したように、体制派と目されている大手新聞でさえ、検察の偏った運用についての批判記事を、社説だったか忘れましたが、目立つ所に書くほど、検察は現在恣意的な(出鱈目と言うのではなく、体制派べったりに偏って一貫していると言う意味です。)起訴便宜主義の運用をしているのです。
それでも、最終処罰は裁判が必須ですから、裁判所さえしっかりしていれば何とかなるのです。
そのためには、証拠法則をしっかりし、裁判所が恣意的認定(体制批判派に厳しい運用をしない)を出来ないようにする必要があるでしょう。
一旦事実認定がされると、証拠批判が出来ない仕組みですと、無実の者が、政治的にでっち上げられて刑務所に放り込まれても、誰も批判出来ない危険があるのです。
そこで、自由心証主義と言っても一定の証拠の掲示くらいは必要であろうとして、生まれたのが証拠の標目を書く制度です。
そこで判決には、証拠の標目を書かねばならないことになっているのですが、標目だけしか見ないで、その証拠自体に当たれないまま判決の事実認定を批判するのは至難(不可能)です。刑事訴訟法
第335条 有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資