09/25/06
刑の執行3と権力の強弱(民衆の同意)
今では、民主主義国家であるから、民意に反した判決では、国民の支持を得られないと教えられますので、そんな時代かなと思う人が多いでしょう。
しかし、実は、個別の事件では民意がどうであろうとも、兎も角判決が確定してしまえば、その被告人は有無を言わさず執行されてしまうのが、(有名な政治家は別として・・・・)現実です。
判例研究などでおかしいのではないかと後に批判の対象になっても処刑された方は助かりません。
判事が怖いのは、後の上級審での破棄と判例評論の方ですが、上級審での変更以外には、後に学者や評論家がどう言おうとも、被告人に下された判決を遡及的に左右できるものではないのです。
政治的事件では、一審で有罪になったものを上級審で無罪に覆されることが怖いのではなく、その逆でしょうから、3審制自体が民主的チェックにはならないのです。
裁判に対する民主的反映は、後者の判例評論でしかないのですが、判例評論は、その事件の判決が出て、しかも公刊されて学者がやっと判決を知って、それに対して一定の研究期間を経て発表されるものです。
これに対する他の学者の再批評など経て判例の評価が定まるには、さらに年月がかかりますので、肝腎の事件は既に事件は確定していることがほぼ100%であると言っても過言ではないでしょう。
ですから、実際には具体的事件に対しては、民主的コントロールは、まったく無力であることが分かるでしょう。
明治以降、国家権力が強大になって、民意などと言う抽象的なものは、何の役にも立たなくなったからこそ、政府・マスコミ・学者は、安心して民意、民意と大げさに言うようになったに過ぎないでしょう。
しかも事実認定については、学者の批評は及び難い(と言うよりは不可能です)ので、理論ではなく、事実認定で勝負されると権力の好きなように処罰されてしまう仕組みです。
ところで、大学で習う刑法では、深遠な哲学のような議論ばかりですが、実務に従事してみると、重要なのは事実認定なのです。
我が国の法定形の幅の広さも関係があるでしょうが、法理論が、有罪無罪の決め手になったり、刑の軽重に影響することはめったにないのです。
ですから、事実認定の方法・・結局は証拠法則ですが、これが何もなくて権力者の意のままになるなら便利です。
このように、事実認定が政権の意のままに出来るのは、一見便利なようですが、政権の信用もなくしますので、古代からどこの社会でも、事実認定のための証拠法則や何をしたらどういう刑を受けると言う刑罰の運用基準が発達してきたのです。
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