09/19/06
未決勾留の施設(牢屋)とその機能2(懲罰的機能1)
これまで、勾留決定や保釈が法の精神に反して運用されていることを繰り返し書いてきましたが、批判するだけでは物事を解決できません。
裁判所は、不当な調べに対してはときどき表向き批判しながらも、フリーパスで勾留決定する理由を探る必要があるでしょう。
警察に身柄を預け続ける運用をしている原因については、単に法の精神に反していると言う批判をするだけでなく、未決拘禁の果たして来た政策的機能やこれによって育まれた精神的土壌を、歴史的に見ておく必要があると思っています。
江戸時代までは、12/15/03「刑務所の歴史3(刑罰の種類1)」で少し触れましたが、熊本・細川家で行刑システムが構築された以外には、他に行刑システムがなかったのです。
上記コラムの後であちこちに話が行ってしまい、3年近く中断していますが、熊本・細川家の行刑システムについては、もう少し後に刑務所シリーズに戻ったところで紹介する予定です。
徳川家としては、佃島人足寄せ場ができるまでは、行刑システムがなかったので、犯罪者にとっては、死刑になる場合以外には、未決で入牢させられることが、最大の懲罰的機能を果たしていたのです。
ですから、時代劇など見ていると、入牢=懲罰としての入牢・・今の服役のイメージになるのは、実態の理解としては正しいのです。
12/21/03「刑罰の種類4「公事方御定書3」のコラムで、江戸時代の刑罰の種類を紹介しましたが、死刑以外はタタキ、追放刑が最大です。
この直ぐ後で刑の執行の段階のコラムで紹介しますが、おかしなことに刑の言い渡しのときに被告人から誓約書を取らざるを得なかった程、刑罰権の内容は緩いものでした。
(追放などと言っても監視しきれるものでは有りません。)
こんなことですから、未決で入牢するのは、犯罪者のホンの一部(結局は重大な犯罪者でしょう)しかなくて、殆ど在宅で審理されていたのですが、国民にとっては本番の刑罰よりも未決入牢の方が怖かったのです。
牢屋は、いわゆる豚箱で非衛生で、まともに食べさせてくれないので栄養失調になる、運動出来ないなどマイナス要因ばかりで、そのうえブラックボックスで何をされるか知れたことではないということで、未決の間にうっかりすると命を落とすことの方が多かったのです。
護良親王が、鎌倉の崖に掘られた岩屋に閉じ込められた例を紹介しましたが、1〜2坪程度のあんな狭い土をくり抜いた中に入れられていたのでは、ちょっとの期間で体力が消耗してしまうのは、避けられません。
中国歴代王朝でも、「獄につながれる」と言うと、命を落とすことを意味したくらい悲惨でした。
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